歌舞伎劇評 令和元年八月 歌舞伎座第一部
八月納涼歌舞伎は、恒例の三部制を取る。
第一部は、七之助初役の『伽羅先代萩』の政岡。竹の間を出さずに、御殿から床下まで。ただし御殿では、近年ではめずらしく飯炊きを出した。政岡は、管領家の企みによって、鶴千代君(長三郎)が毒殺されるのを怖れていた。膳部から出された食事を食べさせない。茶道具を使って、若君と我が子長松(勘太郎)の飯を炊く件りである。
五代目歌右衞門の『歌舞伎の型』には、この手順が詳細に残っている。六代目歌右衛門はこの正統的な後継者であり、当代の菊五郎、玉三郎も六代目から教えを受けている。それにもかかわらず、この飯炊きが必須のものとされていないのは、ある種の事大主義に染まった件りであり、現在の観客には退屈との判断があるからだろう。ただし、歌舞伎の伝承という観点からは、次代の女方を担うべき人材は、一度は、舞台に掛けておく意味がある。
七之助の飯炊きは、大名茶といわれる石州流を踏まえて、坦々と運ぶ。もとより、茶道の専門家ではないから、長年、お茶の世界に親しんだ一部の観客にとっては、まだるいところもあるだろう。けれども、この飯炊きを継承するべき意志がはっきりと打ち出されたところで、真摯な姿勢が胸を打つ。
また、七之助ばかりではなく、だれが演じてもまだるくなりがちな場面を、勘太郎と長三郎の芝居が救っている。このふたりの舞台に対する態度は、勘三郎ゆずりであり、場をきちんと持たせようとする意識に貫かれている。甥ふたりが無私の気持ちで演じるかたわら、七之助は坦々とこの件りをしおおせたのだった。
問題があるとすれば、栄御前が舞台から下がってからだろう。八汐(幸四郎)によって長松を惨殺されたにもかかわらず、鶴千代君を守ることを専一としていた政岡が内心を見せる。沖の井は児太郎。哀切な竹本から、政岡のクドキとなる。
コレ政岡。よう死んでくれた。でかしゃった、でかしゃった。
の調子はよいが、次第に感情が高ぶって、八汐への恨みや憎しみが高まってくる。声も高まっていく。
特に、
「三千世界に子を持った、親の心は皆ひとつ」からは、忠義大事に人生をおくってきた政岡の自責の念がにじむ。我が身を責め立てることで感動を呼んでいく。このあたりが、七之助は抑制を破ってしまうために、写実に傾く。あくまで様式のなかでの嘆きを故意に狂わせているように思える。「辛抱」があくまで役を貫いている覚悟を見たい。
このあたりのさじ加減は口でいうほど容易ではない。立役ならば由良之助、女方は政岡が歌舞伎の大役、二代横綱としてあると五代目歌右衛門も言った。回を重ねるほど、七之助の政岡が進化していく過程を見届けたい。
「天命思い知ったるか」で御簾が閉じてからは、床下。巳之助の男之助は、この役者の着実な成長ぶりが見える。さらに幸四郎の仁木弾正は、巨悪の大きさが出ている。もとより柄に不足はないが、二枚目にこだわるのではなく、役の幅が国崩しまで広がってきたと実感させられた。
続いて『闇梅百物語』。思惟後、彌十郎、種之助、歌昇、扇雀、虎之介、幸四郎がメドレーのように夏らしい怪談の情景を綴っていく。趣向の芝居で、のんびり涼味を愉しんだ。二十七日まで。