柴田書店の刊行物だけあって、プロもしくはプロ志願者がターゲットの本。
中華の技法を一から教えてくれる貴重な一冊。
著者は、辻料理専門学校中華部門の吉岡勝美です。
教えることを仕事としてきた人間の配慮に満ちています。
とはいえ、私のような中華の素人には、なかなか難解でもありました。
2019年2月23日土曜日
【書棚10】神曲という頂点
日本語とは、どのような成り立ちで、どのような表現が可能なのか。
訳業には、そのような考えを進めさせる力がある。
日本翻訳史のなかでも孤高の頂点に立つ三冊。
ダンテ作、寿岳文章訳『神曲』(集英社、一九七六年)。
ブレイクの挿画もイマジネイティブで、
元の大型本を図書館で観て、
もし、気に入ったら古書店で探すのがおすすめです。
訳業には、そのような考えを進めさせる力がある。
日本翻訳史のなかでも孤高の頂点に立つ三冊。
ダンテ作、寿岳文章訳『神曲』(集英社、一九七六年)。
ブレイクの挿画もイマジネイティブで、
元の大型本を図書館で観て、
もし、気に入ったら古書店で探すのがおすすめです。
2019年2月20日水曜日
【劇評134】松緑の真骨頂。ひたむきな縮屋新助。
歌舞伎劇評 平成三十一年二月 歌舞伎座夜の部
二代目辰之助の追善のために、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、玉三郎ら大立者が揃った。特に夜の部は、見どころの多い狂言が並んで、久しぶりに充実した歌舞伎を観た。
はじめに吉右衛門の『熊谷陣屋』。前回、熊谷直実を演じたのは、平成二十五年の四月、歌舞伎座の杮茸落だったから、もう六年が過ぎたかと思うと、歳月の過ぎるのは早い。この舞台も、当代一の時代物役者の絶頂というべき出来で感嘆した。ところが、今月の熊谷は、さらに進んだ藝境にあり、眼を見張った。 まずは、周囲に人が揃っている。雀右衛門の藤の方、菊之助の義経、吉之丞の梶原、又五郎の軍次、歌六の弥陀六、魁春の相模。それぞれに生彩があって、役者の技倆の充実を考えた。特に、歌六の弥陀六がいい。功成り名を遂げた脇役が演じてきたが、歌六の弥陀六は老いの弱さはない。菊之助が演じる義経の品位に一歩も引かぬ気迫がこもっている。雀右衛門の藤の方には、子を失った母の切迫感がある。魁春は、熊谷の怒りを予期して身をすくませる様子がすぐれている。
さて、吉右衛門の直実だが、敦盛の最期を語る軍物語に誇張がなく淡々としている。葵太夫の浄瑠璃もあって、戦に生きなければならぬ武士の哀しさ、切なさがこの件で伝わってくるからこそ、のちの制札の見得、鎧の下に来た墨染めの衣が「芝居の段取り」ではなく、直実が直面する運命が見えてくる。
人は自らに課せられた命運から逃れることは出来ない。終幕、花道での絶唱「十六年は一昔、夢だ」も自らに言い聞かせる言葉として響く。観客をあてこむのではなく、自らの将来、ずっと唱え続ける念仏でもあるかのようだ。この融通無碍で自在な境地に吉右衛門はいる。
梅玉の工藤を上置きに、左近の五郎、米吉の大磯の虎、梅丸の化粧坂の少将、錦之助の十郎、又五郎の朝比奈と、若手から熟練まで世代を超えた曽我物が出た。『當年祝春駒』。又五郎は、この役独特の朝比奈隈がよく似合う。これも地藝があるからこそで、五郎、十郎を制するだけの力感があった。
夜の部の追善狂言は、池田大伍作、池田弥三郎演出の『名月八幡祭』。当代の松緑は、こうした新作歌舞伎のなかでも、ひたむきで直線的な性格の役を演じて定評がある。今回の縮屋新助は、二年前より更に深みがある。江戸の浮き立つ気分にひたり、好きな女が出来、故郷の越後に帰るのをのばしてしまったが故の悲劇を、まっすぐな調子で演じている。
玉三郎の美代吉、仁左衛門の三次は、悪気はないが、かといって倫理感などもっとない市井の男女を描いて、まさしく名調子。こうした気の合った世話を観るのは、歌舞伎の至福と呼んでいいだろう。
美代吉母、歌女之丞のすがれた様子、歌六の魚惣の貫禄。特に歌六は、この悲劇を導いてしまった本人だけに、内省の深さが終幕にあった。二十六日まで。
二代目辰之助の追善のために、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、玉三郎ら大立者が揃った。特に夜の部は、見どころの多い狂言が並んで、久しぶりに充実した歌舞伎を観た。
はじめに吉右衛門の『熊谷陣屋』。前回、熊谷直実を演じたのは、平成二十五年の四月、歌舞伎座の杮茸落だったから、もう六年が過ぎたかと思うと、歳月の過ぎるのは早い。この舞台も、当代一の時代物役者の絶頂というべき出来で感嘆した。ところが、今月の熊谷は、さらに進んだ藝境にあり、眼を見張った。 まずは、周囲に人が揃っている。雀右衛門の藤の方、菊之助の義経、吉之丞の梶原、又五郎の軍次、歌六の弥陀六、魁春の相模。それぞれに生彩があって、役者の技倆の充実を考えた。特に、歌六の弥陀六がいい。功成り名を遂げた脇役が演じてきたが、歌六の弥陀六は老いの弱さはない。菊之助が演じる義経の品位に一歩も引かぬ気迫がこもっている。雀右衛門の藤の方には、子を失った母の切迫感がある。魁春は、熊谷の怒りを予期して身をすくませる様子がすぐれている。
さて、吉右衛門の直実だが、敦盛の最期を語る軍物語に誇張がなく淡々としている。葵太夫の浄瑠璃もあって、戦に生きなければならぬ武士の哀しさ、切なさがこの件で伝わってくるからこそ、のちの制札の見得、鎧の下に来た墨染めの衣が「芝居の段取り」ではなく、直実が直面する運命が見えてくる。
人は自らに課せられた命運から逃れることは出来ない。終幕、花道での絶唱「十六年は一昔、夢だ」も自らに言い聞かせる言葉として響く。観客をあてこむのではなく、自らの将来、ずっと唱え続ける念仏でもあるかのようだ。この融通無碍で自在な境地に吉右衛門はいる。
梅玉の工藤を上置きに、左近の五郎、米吉の大磯の虎、梅丸の化粧坂の少将、錦之助の十郎、又五郎の朝比奈と、若手から熟練まで世代を超えた曽我物が出た。『當年祝春駒』。又五郎は、この役独特の朝比奈隈がよく似合う。これも地藝があるからこそで、五郎、十郎を制するだけの力感があった。
夜の部の追善狂言は、池田大伍作、池田弥三郎演出の『名月八幡祭』。当代の松緑は、こうした新作歌舞伎のなかでも、ひたむきで直線的な性格の役を演じて定評がある。今回の縮屋新助は、二年前より更に深みがある。江戸の浮き立つ気分にひたり、好きな女が出来、故郷の越後に帰るのをのばしてしまったが故の悲劇を、まっすぐな調子で演じている。
玉三郎の美代吉、仁左衛門の三次は、悪気はないが、かといって倫理感などもっとない市井の男女を描いて、まさしく名調子。こうした気の合った世話を観るのは、歌舞伎の至福と呼んでいいだろう。
美代吉母、歌女之丞のすがれた様子、歌六の魚惣の貫禄。特に歌六は、この悲劇を導いてしまった本人だけに、内省の深さが終幕にあった。二十六日まで。
2019年2月12日火曜日
【劇評133】初世辰之助追善
歌舞伎劇評 平成三十一年二月 歌舞伎座昼の部
二月の歌舞伎座は、初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言が並ぶ。三世尾上松緑ではないのは、この名跡が追贈だからか。理屈はともかく私より上の世代にとっては、辰之助の追善といってくれたほうが実感が湧くし、気持ちも入る。
まずは、松緑の権太。『義経千本桜』のすし屋だが、この場だけが単独で出る場合、嫌われ者の権太が、いかに女房子供を大切にしているかがわからないために、維盛の妻内侍(新悟)と嫡男六代君の身代わりに、自らの妻子を頼朝方に差し出す不条理がどうしても伝わりにくい。松緑の権太は、母親小せん(緑)に対する甘えや騙りをおもしろく見せる。梅枝のお里は万事控えめな芝居で、この役を上品に作っている。弥助実は維盛(菊之助)を諦めてからの情愛に見どころがある。
いがみの権太と妻子が主筋ならば、維盛とその奥方、息子との再会、そして流転の運命が脇筋になるが、今ひとつ流浪の貴公子の絶望が伝わってこない。この主筋と脇筋は、お互い響き合ってこそ、立場を越えた妻子との情愛の不変性が見えてくるのだろう。
陣羽織の褒美を与えられた松緑は、花道へ去る内侍と六代君を見送るときの目つきが鋭い。「お頼みもうします」を受けての泣きがよい。
團蔵の弥左衛門が実直。芝翫の梶原平三は、肚のある人物として舞台を支えている。段取りではなく、維盛の妻子を捕らえる覚悟が見える。
続いて菊五郎の『暗闇の丑松』。長谷川伸の新作歌舞伎だが、善人だが世の中を上手く泳ぎわたれない丑松(菊五郎)とお米(時蔵)の命運が、救いようもない筋立てで語られる。序幕の鳥越二階の場が陰惨だ。実の母(橘三郎)にいたぶられるお米。味方をしつつも、DVに手を貸す浪人(團蔵)だれもが、この世の世知辛さのなかで、生きる望みを失っているとよくわかる。
二幕、板橋の切ろうに移ってから、丑松と牛夫の亀蔵とのやりとりに世話の愉しさがあり、また、喧嘩っ早い職人松也が登場してからは、いささか場が賑やかになる。この明るさを一転してお米の自死へと展開させるところが長谷川伸の真骨頂。思いのままにならぬ夫婦の悲しみを、菊五郎、時蔵、円熟の藝で見せる。
ふたりを翻弄し、騙していた料理人元締四郎兵衛(左團次)とその女房お今(東蔵)。この饐えたような雰囲気は、この年代にならないと出せない。世間的にいえば悪でも、こうしなければ生きてこられなかった世の厳しさが浮かび上がる。つまりは、この『暗闇の丑松』の世界には、善人や悪人はおらず、ただ非情な世間があるばかりなのであった。
夜の部は、『団子売』。芝翫、孝太郎の息のあった夫婦振りを見せる。二十六日まで。
二月の歌舞伎座は、初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言が並ぶ。三世尾上松緑ではないのは、この名跡が追贈だからか。理屈はともかく私より上の世代にとっては、辰之助の追善といってくれたほうが実感が湧くし、気持ちも入る。
まずは、松緑の権太。『義経千本桜』のすし屋だが、この場だけが単独で出る場合、嫌われ者の権太が、いかに女房子供を大切にしているかがわからないために、維盛の妻内侍(新悟)と嫡男六代君の身代わりに、自らの妻子を頼朝方に差し出す不条理がどうしても伝わりにくい。松緑の権太は、母親小せん(緑)に対する甘えや騙りをおもしろく見せる。梅枝のお里は万事控えめな芝居で、この役を上品に作っている。弥助実は維盛(菊之助)を諦めてからの情愛に見どころがある。
いがみの権太と妻子が主筋ならば、維盛とその奥方、息子との再会、そして流転の運命が脇筋になるが、今ひとつ流浪の貴公子の絶望が伝わってこない。この主筋と脇筋は、お互い響き合ってこそ、立場を越えた妻子との情愛の不変性が見えてくるのだろう。
陣羽織の褒美を与えられた松緑は、花道へ去る内侍と六代君を見送るときの目つきが鋭い。「お頼みもうします」を受けての泣きがよい。
團蔵の弥左衛門が実直。芝翫の梶原平三は、肚のある人物として舞台を支えている。段取りではなく、維盛の妻子を捕らえる覚悟が見える。
続いて菊五郎の『暗闇の丑松』。長谷川伸の新作歌舞伎だが、善人だが世の中を上手く泳ぎわたれない丑松(菊五郎)とお米(時蔵)の命運が、救いようもない筋立てで語られる。序幕の鳥越二階の場が陰惨だ。実の母(橘三郎)にいたぶられるお米。味方をしつつも、DVに手を貸す浪人(團蔵)だれもが、この世の世知辛さのなかで、生きる望みを失っているとよくわかる。
二幕、板橋の切ろうに移ってから、丑松と牛夫の亀蔵とのやりとりに世話の愉しさがあり、また、喧嘩っ早い職人松也が登場してからは、いささか場が賑やかになる。この明るさを一転してお米の自死へと展開させるところが長谷川伸の真骨頂。思いのままにならぬ夫婦の悲しみを、菊五郎、時蔵、円熟の藝で見せる。
ふたりを翻弄し、騙していた料理人元締四郎兵衛(左團次)とその女房お今(東蔵)。この饐えたような雰囲気は、この年代にならないと出せない。世間的にいえば悪でも、こうしなければ生きてこられなかった世の厳しさが浮かび上がる。つまりは、この『暗闇の丑松』の世界には、善人や悪人はおらず、ただ非情な世間があるばかりなのであった。
夜の部は、『団子売』。芝翫、孝太郎の息のあった夫婦振りを見せる。二十六日まで。
2019年2月2日土曜日
【劇評132】藤原竜也の魔術
現代演劇劇評 平成三十一年一月 東京芸術劇場
喜劇でもなく、悲劇でもなく。まして、悲喜劇でもなく。
昨日は芸劇のプレイハウスで藤原竜也の『プラトーノフ』(アントン・チェーホフ作 デヴィッド・ヘア脚色 目黒条翻訳 森新太郎演出)を観た。
はじめに目を奪われるのは、曲線が際立った傾斜舞台と宙に吊られた円形のオブジェである。
二村周作による構成舞台は、これからはじまる劇が、ロシアの大地に根ざす物語ではなく、無国籍で普遍的な物語であると告げているかに見える。けれど、その期待は人物たちが登場すると見事に裏切られる。ゴウダアツコによる衣裳は、装置とは裏腹に、伝統的なロシアをたやすく思い出させる。
そして、芝居がはじまる。
登場人物ysちは、ふざけちらしている。しかも誇張した演技である。
いったいどんなルールでチェーホフを上演しようというのか。
森新太郎の演出意図に疑いを持つ。いぶかしく、さえ思った。
藤原竜也によるプラトーノフが登場し、だれかれ構わず暴言を吐き、人間関係を混乱させる。ありていにいえば、迷惑なやつである。
やがて、どうやらこのチェーホフ未完の断片を、デヴィッド・ヘアはお芝居として仕立て挙げ、さらに森は辛い悲喜劇として演出しようとしているのではないか。
第一幕を見終えた時点では、そんなことを考えながら見ていた。
ありていにいえば、四人の女性たちが、プラトーノフという魅力的な存在を争う筋立てである。高岡早紀のアンナ、比嘉愛未のソフィヤ、前田亜季のサーシャ、そして中別府葵のマリヤが、個性はさまざまであるにもかかわらず、ひとりに男にひかれてしまう。
高岡のプライドと身を投げ出す強さ、比嘉の品位と情熱、前田の信仰と優しさ、中別府の激情と後悔。いずれも、役を自在に操っている。
しかも第二幕からは、プラトーノフは、汚れた下着姿で、紙もぼさぼさ、風呂にはいっていない設定のメイクで全身を汚している。しかも、四人の女性たちの求めるままに、その場しのぎで流されていくダメ男ぶりである。
不潔で、金もなく、優柔不断な男をなぜ、四人の女は追いかけるのか。その疑問に説得力を与えるのが、藤原竜也の不可思議な魅力なのであった。その意味では、デビュー当時から、アンビバレンツな魅力を発散してきたこの役者の現在を語るのに、これほど適切な戯曲はないとさえ思わせた。
先に私は悲喜劇と書いたが、終幕に向かって混乱はさらに深刻になり、あまりの絶望的な状況に笑うしかない。
その意味で、お互いが決して分かり合えない男と女を描いた悲劇としての相貌が浮かびあがってくる。
あるいはこう言いかえてもいい。
女性たちがしっかりとした確信を保とうしているのに対して、男性たちはなんとも情けない様相となるのは、なぜか。
浅利陽介のニコライ、神保悟志のポルフォーリ、石田圭祐のパーヴェル、西岡徳馬の大佐らが、プラトーノフの創り出す強力な磁場に抵抗できず、迷走するさまは、やはり喜劇なのか、いや、まさしく現代の鏡なのかと思わせる。
ジャンルの分類はどうでもいい。
人生に対する警句にあふれたチェーホフの殻が破られている。
人生はうんざりすることばかりだとうんざりし、でもまあ、それでも生きるしかないのだなと嘆息する。
そんな複雑怪奇な劇となった。あなどない舞台である。
目黒条の翻訳は、ロシアの人名の混迷を避けている。また、訳の調子もシンプルで歯切れがよい。目黒の父、ロシア文学の泰斗、小笠原豊樹の訳業を思い出した。
十七日まで。
その後、大阪、梅田芸術劇場の大千穐楽まで各地を巡演。
喜劇でもなく、悲劇でもなく。まして、悲喜劇でもなく。
昨日は芸劇のプレイハウスで藤原竜也の『プラトーノフ』(アントン・チェーホフ作 デヴィッド・ヘア脚色 目黒条翻訳 森新太郎演出)を観た。
はじめに目を奪われるのは、曲線が際立った傾斜舞台と宙に吊られた円形のオブジェである。
二村周作による構成舞台は、これからはじまる劇が、ロシアの大地に根ざす物語ではなく、無国籍で普遍的な物語であると告げているかに見える。けれど、その期待は人物たちが登場すると見事に裏切られる。ゴウダアツコによる衣裳は、装置とは裏腹に、伝統的なロシアをたやすく思い出させる。
そして、芝居がはじまる。
登場人物ysちは、ふざけちらしている。しかも誇張した演技である。
いったいどんなルールでチェーホフを上演しようというのか。
森新太郎の演出意図に疑いを持つ。いぶかしく、さえ思った。
藤原竜也によるプラトーノフが登場し、だれかれ構わず暴言を吐き、人間関係を混乱させる。ありていにいえば、迷惑なやつである。
やがて、どうやらこのチェーホフ未完の断片を、デヴィッド・ヘアはお芝居として仕立て挙げ、さらに森は辛い悲喜劇として演出しようとしているのではないか。
第一幕を見終えた時点では、そんなことを考えながら見ていた。
ありていにいえば、四人の女性たちが、プラトーノフという魅力的な存在を争う筋立てである。高岡早紀のアンナ、比嘉愛未のソフィヤ、前田亜季のサーシャ、そして中別府葵のマリヤが、個性はさまざまであるにもかかわらず、ひとりに男にひかれてしまう。
高岡のプライドと身を投げ出す強さ、比嘉の品位と情熱、前田の信仰と優しさ、中別府の激情と後悔。いずれも、役を自在に操っている。
しかも第二幕からは、プラトーノフは、汚れた下着姿で、紙もぼさぼさ、風呂にはいっていない設定のメイクで全身を汚している。しかも、四人の女性たちの求めるままに、その場しのぎで流されていくダメ男ぶりである。
不潔で、金もなく、優柔不断な男をなぜ、四人の女は追いかけるのか。その疑問に説得力を与えるのが、藤原竜也の不可思議な魅力なのであった。その意味では、デビュー当時から、アンビバレンツな魅力を発散してきたこの役者の現在を語るのに、これほど適切な戯曲はないとさえ思わせた。
先に私は悲喜劇と書いたが、終幕に向かって混乱はさらに深刻になり、あまりの絶望的な状況に笑うしかない。
その意味で、お互いが決して分かり合えない男と女を描いた悲劇としての相貌が浮かびあがってくる。
あるいはこう言いかえてもいい。
女性たちがしっかりとした確信を保とうしているのに対して、男性たちはなんとも情けない様相となるのは、なぜか。
浅利陽介のニコライ、神保悟志のポルフォーリ、石田圭祐のパーヴェル、西岡徳馬の大佐らが、プラトーノフの創り出す強力な磁場に抵抗できず、迷走するさまは、やはり喜劇なのか、いや、まさしく現代の鏡なのかと思わせる。
ジャンルの分類はどうでもいい。
人生に対する警句にあふれたチェーホフの殻が破られている。
人生はうんざりすることばかりだとうんざりし、でもまあ、それでも生きるしかないのだなと嘆息する。
そんな複雑怪奇な劇となった。あなどない舞台である。
目黒条の翻訳は、ロシアの人名の混迷を避けている。また、訳の調子もシンプルで歯切れがよい。目黒の父、ロシア文学の泰斗、小笠原豊樹の訳業を思い出した。
十七日まで。
その後、大阪、梅田芸術劇場の大千穐楽まで各地を巡演。