2019年2月20日水曜日

【劇評134】松緑の真骨頂。ひたむきな縮屋新助。

歌舞伎劇評 平成三十一年二月 歌舞伎座夜の部

二代目辰之助の追善のために、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門、玉三郎ら大立者が揃った。特に夜の部は、見どころの多い狂言が並んで、久しぶりに充実した歌舞伎を観た。
はじめに吉右衛門の『熊谷陣屋』。前回、熊谷直実を演じたのは、平成二十五年の四月、歌舞伎座の杮茸落だったから、もう六年が過ぎたかと思うと、歳月の過ぎるのは早い。この舞台も、当代一の時代物役者の絶頂というべき出来で感嘆した。ところが、今月の熊谷は、さらに進んだ藝境にあり、眼を見張った。 まずは、周囲に人が揃っている。雀右衛門の藤の方、菊之助の義経、吉之丞の梶原、又五郎の軍次、歌六の弥陀六、魁春の相模。それぞれに生彩があって、役者の技倆の充実を考えた。特に、歌六の弥陀六がいい。功成り名を遂げた脇役が演じてきたが、歌六の弥陀六は老いの弱さはない。菊之助が演じる義経の品位に一歩も引かぬ気迫がこもっている。雀右衛門の藤の方には、子を失った母の切迫感がある。魁春は、熊谷の怒りを予期して身をすくませる様子がすぐれている。
さて、吉右衛門の直実だが、敦盛の最期を語る軍物語に誇張がなく淡々としている。葵太夫の浄瑠璃もあって、戦に生きなければならぬ武士の哀しさ、切なさがこの件で伝わってくるからこそ、のちの制札の見得、鎧の下に来た墨染めの衣が「芝居の段取り」ではなく、直実が直面する運命が見えてくる。
人は自らに課せられた命運から逃れることは出来ない。終幕、花道での絶唱「十六年は一昔、夢だ」も自らに言い聞かせる言葉として響く。観客をあてこむのではなく、自らの将来、ずっと唱え続ける念仏でもあるかのようだ。この融通無碍で自在な境地に吉右衛門はいる。
梅玉の工藤を上置きに、左近の五郎、米吉の大磯の虎、梅丸の化粧坂の少将、錦之助の十郎、又五郎の朝比奈と、若手から熟練まで世代を超えた曽我物が出た。『當年祝春駒』。又五郎は、この役独特の朝比奈隈がよく似合う。これも地藝があるからこそで、五郎、十郎を制するだけの力感があった。
夜の部の追善狂言は、池田大伍作、池田弥三郎演出の『名月八幡祭』。当代の松緑は、こうした新作歌舞伎のなかでも、ひたむきで直線的な性格の役を演じて定評がある。今回の縮屋新助は、二年前より更に深みがある。江戸の浮き立つ気分にひたり、好きな女が出来、故郷の越後に帰るのをのばしてしまったが故の悲劇を、まっすぐな調子で演じている。
玉三郎の美代吉、仁左衛門の三次は、悪気はないが、かといって倫理感などもっとない市井の男女を描いて、まさしく名調子。こうした気の合った世話を観るのは、歌舞伎の至福と呼んでいいだろう。
美代吉母、歌女之丞のすがれた様子、歌六の魚惣の貫禄。特に歌六は、この悲劇を導いてしまった本人だけに、内省の深さが終幕にあった。二十六日まで。