2018年7月16日月曜日

【劇評115】海老蔵が猿・秀吉となる趣向

 歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座昼の部

七月歌舞伎座昼の部は、『三國無雙瓢箪久 出世太閤記』。黙阿弥の『大徳寺焼香の場』の復活かと思いきや、今回は昭和五六年の『裏表太閤記』を参照しつつ、新たな台本に仕上げている。織田絋二、石川耕士、川崎哲男、藤間勘十郎の四者による補綴・演出である。
歌舞伎のイロハはもとより、通し狂言の仕組みを知り抜いた補綴で、復活狂言にありがちな生な感触がまったくない。輝かしい美男の海老蔵が、猿と呼ばれる秀吉となる。その意表をついたおもしろさが全編を貫いている。

眼目は、なにより二幕目第三場、松下嘉兵衛住家の場。鶴屋南北の作を活かした部分で、光秀の遺児重次郎(福之助)が実は、秀吉(海老蔵)と女房八重(児太郎)の子であったという奇想を、皐月(雀右衛門)、嘉兵衛(右團次)の手厚い芝居で見せる。
続く大徳寺は、松江、亀鶴、市蔵、権十郎、斎入、家橘、友右衛門、獅童と顔が揃って、坦々とした台詞劇を見せる。宙乗りを喜ぶ現在の観客には、なかなか辛抱がいる件となっている。

今回の舞台は、序幕の夢の場はともかくも、本能寺の場、備中高松場外の場で、獅童と海老蔵に大きく寄りかかっているところにある。もとより歌舞伎は役者のありようを見せる演劇だが、こうした場こそ脇を手厚くしないと芝居に旨味がなくなる。
座組は、幕外の人間には伺い知れない難しさがあるのだろう。古典が安定した出来が保証されているのは、この芝居には、この役者がいると明瞭に了解があることだろうと思う。こうした復活狂言になると、役柄と出演者の関係が曖昧になるきらいがあり、ジグソーパズルの最後の一枚、ピースがぴたりとはまったような喜びを得るのはむずかしい。

ともあれ、座組によって、また、台本の改訂によってさらに面白くなる可能性を秘めた舞台であることは間違いない。