歌舞伎劇評 平成三〇年七月 歌舞伎座夜の部
歌舞伎が単なる舞台を超えて事件となることがある。
平成の記憶をたどれば、平成十三年にシアターコクーンで上演された『三人吉三』、同じく平成一三年、歌舞伎座の『野田版 研辰の討たれ』、平成一六年、ニューヨークの『夏祭浪花鑑』が思い浮かぶ。串田和美、野田秀樹という現代演劇の演出家、劇作家が加わることで、歌舞伎を取り巻くさまざまな常識が大きく変わって、変換をとげた。その舞台はスリリングな魅力に充ちていた。
さて、七月大歌舞伎の夜の部は、今井豊茂作 藤間勘十郎演出・振付の『通し狂言 源氏物語』が出た。作品の出来不出来は、とりあえずおいておこう。なにより、歌舞伎俳優とオペラのカウンターテナー、能のシテ方、狂言方、囃子方がひとつの舞台に乗った。
舞台の構成は、歌舞伎俳優だけで演じる部分は、物語の進行を主に受け持つ。その間に、声楽のリサイタルが挟まり、また、六条御息所の件を能楽師たちが演じるのかと、発端、序幕が終わったときは思った。これは、それぞれの職分が、その特徴を活かして、並列する舞台なのかと思ったのだが、私の予想は見事に裏切られた。
本舞台には、能の地謡と囃子方がならんで、「葵の上」を歌舞伎舞台であえて上演しているかのようなしつらえである。そこに花道に面をつけた能役者が、七三のスッポンから迫り上がる。本舞台に向かうと、雀右衛門の六条御息所に触れる。六条が複数いるとのがいけないとか理屈をいうつもりはない。異なった修業を行ってきた身体が、さしたる手立てを欠いたまま、身体が触れあってしまう。そこには、戦慄と驚愕があるだけで、感動はなかった。ありえないことが起こっている衝撃に打ちのめされた。
さらに第二幕以降は、混乱の極みである。
カウンター・テナーのアンソニー・ロス・コンスタンツォとテノールのザッカリー・ワイルダーは、独立した歌唱として成立している。たた、それぞれの楽曲に対して、筋書きに一曲「In Darkness Let Me Dwell」の訳が掲載されているばかりで、源氏物語との関連が読み取れない。ただ、音としてオペラ歌手の歌唱を愉しむばかりで、肝心の舞台にからむ情報が欠けている。これだけで、光と闇のテーゼを読み取れといわれても、私は唖然とするほかない。作り手にオペラ歌手を起用し、この楽曲を選択した必然性を伝えよとまではいわない。けれど、現状の台本・演出では、なぜ、ここで、オペラの楽曲が必要なのかが説得力を持たない。
さらに、海老蔵の宙乗りがある。宙乗りを喜ぶ観客の目には入らないのだろう。この海老蔵を見るための場に、ふたりの能役者が花道を前後する。歌舞伎の常識では、名題下が勤める役割であり、これを能役者が演じるのには違和感がある。いったい何が行われているのか、途方に暮れる心地であった。
今回の上演台本は、『源氏物語』を光り輝く源氏と、その行動に翻弄される女性たちの物語ではない。新たな解釈をほどこしている。それは源氏(海老蔵)と父の桐壺帝との相克であり、また、源氏と実の我が子、春宮のちの冷泉帝、(堀越勸玄)とのいずれは訪れる相克でもある。こうした新しい視点の打ち出しと、海老蔵と勸玄の親子関係をだぶらせるあたりは、歌舞伎ならではの趣向でもあるだろう。
澤邊芳明の映像は、歌舞伎座の大舞台を活かしてダイナミックに見せる。いけばなは華道家元池坊、この二者が舞台を下支えしている。
右大臣に右團次、後の朱雀帝に坂東亀蔵、葵の上に児太郎、大命婦に東蔵、弘徽殿に魁春。今、光源氏を演じてだれもが納得する輝きを海老蔵はそなえている。それぞれの芝居は誠実で良質なだけに、新たな試みが実質をそなえた事件となる日を待ち望む。
事件は、どのような理由であれ、目撃しておく価値があると私は思う。