2018年6月9日土曜日

【劇評112】吉右衛門と歌六の地藝

 六月歌舞伎座夜の部は、まず吉右衛門の『夏祭浪花鑑』から。侠気にあふれるいなせな魚屋団七を、上方色を強調することなく演じている。孫の寺嶋和史が団七伜市松で出る。住吉鳥居前の場、幕切れの引っ込みで孫を背負って花道を歩く。その幸せにあふれた姿を観るのも、歌舞伎鑑賞の王道というべきだろう。

話題ばかりではない。舞台のレベルは高い。釣船三婦は歌六。昔ならした喧嘩の強さが全身から発せられ、念仏三昧の生活を破る瀬戸際を活写している。吉右衛門の団七に向かい合うのは錦之助の一寸徳兵衛。止めに入るのは、団七女房お梶の菊之助。この三人が絵面にキマルところに、世代を超えた歌舞伎の新たな展開を感じる。

二幕目三婦内の場。歌六がよいのはすでに言ったが、この場でも今か、今かと破裂しそうな暴力装置として魅力を発散している。支えるのが東蔵による女房のおつぎ。礒之丞(種之助)をめぐって、雀右衛門のお辰と話をまとめるときの会話の巧さは、舌を巻くばかり。なんといっても、この場で儲かるのはお辰。熱い鉄ごてを額に当ててみずからの容貌を醜くする件り。雀右衛門の芝居は当て込みがない。決しておしつけがましくなく、夫徳兵衛が、心意気に惚れるのもむべなるかなと説得される。説得されて気持ち良く、しかも溜飲が下がるのだから現在の雀右衛門の藝の力はたいしたものだと思う。傾城琴浦は米吉。

泥場として知られ、本水も使うが、決してケレンに終わらせないのが吉右衛門の長町裏。橘三郎の舅義平次がまたよく、全身が渋紙のように見える。老醜を隠すのではなく、みせつける。すさまじい実在感があって圧倒される。橘三郎の好演があって、吉右衛門のこの世の苦しみがありありと伝わってくる。
殺したいから殺すのではない。けれど、偶然、刃をあててしまったからには、このままでは、終わらせることはできない。救急車を呼べばいいという現代とは全く異なる、江戸の暗闇が確かに感じ取れた。かどかどのキマリがすぐれているのは、吉右衛門だけにことさらいうまでもない。

奇作と呼びたくなるのが宇野信夫作の『巷談宵宮雨』(大場正昭演出)。
見どころは、破戒坊主の伯父、芝翫の龍達、松緑の太十、雀右衛門のおいち。この三者が色と金をめぐって、腹を探り、謀議をめぐらし、牽制し合う世話場のおもしろさだろう。三者それぞれに、リアルな人物像を作り上げるが、芝翫にはどこか人のよさが漂い、松緑には肚の太さがあり、雀右衛門には江戸の女の心細さが感じられる。単に色と欲に溺れた人々ではなく、その翳りまでも描き出している。

周囲を支える人々がまたいい。無口な松江の早桶屋徳兵衞、梅花のその妻おとま、薬売りの橘太郎。こうした役者が世話物の細部を支える時代になったのだと実感した。

幕切れは、宇野信夫の原作はもとより辛い芝居である。今回の演出では、ホラーにみえてしまうのはいかがなものだろうか。照明を含め再考の余地はあるだろう。二十六日まで。

【劇評111】時蔵、花の盛り。菊之助の愛嬌

歌舞伎劇評 平成三十年六月 歌舞伎座昼の部 

時蔵が今を盛りと花ひらいている。
先々月、先月から大役が続く。六月の歌舞伎座昼の部は、『妹背山婦女庭訓』のお三輪。いじめ官女に苛まれ、辛抱に辛抱を重ねたあげく、嫉妬の炎を燃やし、やがて凝着の相へと至る。若手花形には手に余る役だが、時蔵の手にかかると、寸分の隙もなく、役本来にある飛躍をものともせず、一貫して理不尽な境遇に苦しむ女性として舞台上にある。「竹に雀」の馬子唄の件には、憐れがあり、「三国一の婿取り」と囃し立てる声を聴いてからの思い入れも深い。七三でキット決まるときの姿の美しさと申し分がない。
鱶七は七度目の松緑。時蔵とは初めての顔合わせだが、相性がいい。漁師の素朴なものいいが、松緑本来の美質と合って、この大人の神秘劇を時蔵とともに盛り上げている。
求女の松也もしっくりみえるようになった。相手の橘姫は新悟。若女方として実力をつけているのがわかる。ただ、美男美女のふたりが並んだときに、吸引力というか、ある種の魔力が舞台に流れなければいけないのがこの種の役のむずかしいところ。曾我入鹿の楽善は、不気味な古怪さがある。豆腐買おむらに芝翫がつきあう。

『六歌仙容彩』は、変化舞踊の代表的な作品で、僧正遍照、文屋康秀、在原業平、小野小町、喜撰法師、大伴黒主の六人をひとりで踊り分ける。たとえば業平と黒主のように対極的な役もあり、高僧でありながら茶屋の娘と戯れる喜撰のような役もある。当代一の踊り手としては、いずれは全曲をひとりで踊りたいとのもくろみがあってのことだろう。
先月の『喜撰』に続いて『文屋』が出た。現在の仁、年齢、技倆からすれば『文屋』のほうが取り組みやすいのは確かだ。その評価を得るのは当然と織り込んで、菊之助は果敢に「踊りの面白さ」を強調する。将来に向けて大曲の一部を慎重に勤めるのではなく、いまできることをやりきる。
具体的に言えば、顔で踊らず、全身が躍動している。こってりとしていながら、愛嬌が加わる。美貌、美声に恵まれた俳優だけに、愛嬌が課題だったが、この『文屋』で得た成果を、芝居のほうに活かせれば、単に『六歌仙容彩』通しの下ならしに終わらない。今月の収獲である。

さて、続くのは河竹黙阿弥の『野晒悟助』。黙阿弥の中でも上演頻度が少ないのには理由がある。男伊達の悟助(菊五郎)の粋なありようを観るだけの芝居だ。

堤婆組の横暴から土器売りの父娘、詫助(家橘)お賤(児太郎)を救い、また、堤婆組に拉致されそうになった大店扇屋の娘小田井(米吉)に惚れられる。
先に申し込まれたからという理由で扇屋の後家香晒(東蔵)の願いに応え、小田井と盃を交わして娶るが、またも堤婆組の仁三郎(左團次)の横車によって、お賤は我が身を売って悟助を救う。

荒唐無稽にもほどがある。『御所五郎蔵』も皐月とのやりとりに首をかしげたくなる件りがあるが、『野晒悟助』はさらに凄まじく、芯も周囲も劇として成立させるのがなかなか難しい。あまり深いことは考えるのは野暮というもの。男伊達どはどうあるべきか、菊五郎が達した藝境を楽しんだ。二十六日まで。