2018年6月9日土曜日

【劇評111】時蔵、花の盛り。菊之助の愛嬌

歌舞伎劇評 平成三十年六月 歌舞伎座昼の部 

時蔵が今を盛りと花ひらいている。
先々月、先月から大役が続く。六月の歌舞伎座昼の部は、『妹背山婦女庭訓』のお三輪。いじめ官女に苛まれ、辛抱に辛抱を重ねたあげく、嫉妬の炎を燃やし、やがて凝着の相へと至る。若手花形には手に余る役だが、時蔵の手にかかると、寸分の隙もなく、役本来にある飛躍をものともせず、一貫して理不尽な境遇に苦しむ女性として舞台上にある。「竹に雀」の馬子唄の件には、憐れがあり、「三国一の婿取り」と囃し立てる声を聴いてからの思い入れも深い。七三でキット決まるときの姿の美しさと申し分がない。
鱶七は七度目の松緑。時蔵とは初めての顔合わせだが、相性がいい。漁師の素朴なものいいが、松緑本来の美質と合って、この大人の神秘劇を時蔵とともに盛り上げている。
求女の松也もしっくりみえるようになった。相手の橘姫は新悟。若女方として実力をつけているのがわかる。ただ、美男美女のふたりが並んだときに、吸引力というか、ある種の魔力が舞台に流れなければいけないのがこの種の役のむずかしいところ。曾我入鹿の楽善は、不気味な古怪さがある。豆腐買おむらに芝翫がつきあう。

『六歌仙容彩』は、変化舞踊の代表的な作品で、僧正遍照、文屋康秀、在原業平、小野小町、喜撰法師、大伴黒主の六人をひとりで踊り分ける。たとえば業平と黒主のように対極的な役もあり、高僧でありながら茶屋の娘と戯れる喜撰のような役もある。当代一の踊り手としては、いずれは全曲をひとりで踊りたいとのもくろみがあってのことだろう。
先月の『喜撰』に続いて『文屋』が出た。現在の仁、年齢、技倆からすれば『文屋』のほうが取り組みやすいのは確かだ。その評価を得るのは当然と織り込んで、菊之助は果敢に「踊りの面白さ」を強調する。将来に向けて大曲の一部を慎重に勤めるのではなく、いまできることをやりきる。
具体的に言えば、顔で踊らず、全身が躍動している。こってりとしていながら、愛嬌が加わる。美貌、美声に恵まれた俳優だけに、愛嬌が課題だったが、この『文屋』で得た成果を、芝居のほうに活かせれば、単に『六歌仙容彩』通しの下ならしに終わらない。今月の収獲である。

さて、続くのは河竹黙阿弥の『野晒悟助』。黙阿弥の中でも上演頻度が少ないのには理由がある。男伊達の悟助(菊五郎)の粋なありようを観るだけの芝居だ。

堤婆組の横暴から土器売りの父娘、詫助(家橘)お賤(児太郎)を救い、また、堤婆組に拉致されそうになった大店扇屋の娘小田井(米吉)に惚れられる。
先に申し込まれたからという理由で扇屋の後家香晒(東蔵)の願いに応え、小田井と盃を交わして娶るが、またも堤婆組の仁三郎(左團次)の横車によって、お賤は我が身を売って悟助を救う。

荒唐無稽にもほどがある。『御所五郎蔵』も皐月とのやりとりに首をかしげたくなる件りがあるが、『野晒悟助』はさらに凄まじく、芯も周囲も劇として成立させるのがなかなか難しい。あまり深いことは考えるのは野暮というもの。男伊達どはどうあるべきか、菊五郎が達した藝境を楽しんだ。二十六日まで。