2017年9月19日火曜日

【劇評84】ロロの『BGM』。ロード・ムービーの演劇的展開

現代演劇劇評 平成二十九年九月 ザ・スズナリ

ロードムービーが好きだった。
『イージー・ライダー』『ペーパー・ムーン』『パリ・テキサス』『スタンド・バイ・ミー』『砂の器』『ブエノスアイレス』のような思い出深い映画が直ぐに思い浮かぶ。なぜ、あれほど好きだったのだろう。私はまだ子どもだったから、自動車の運転も出来なかったし、列車や航空機にのることもかなわなかった。どこかへ、気ままに言ってみたい気持ちは、どんな子どもにも取り憑くに違いない。
映画として考えると、こうした子どもの欲望を元にしながら、主人公たちの関係が、風景とともに変わっていく、そのプロセスを描くのに向いている。つねに動いていなければいけない映画は、ロードムービーという形式にうってつけなのだ。
と、考えると演劇にロードムービーの形式を取った舞台がほとんど見当たらないのに気がつく。自動車に乗っている場面でさえも少ない。今回、ロロの『BGM』(作・演出三浦直之)を観て思ったのは、ロードムービーと音楽に対する偏愛なのであった。
「BBQ(バーベキュー)」と「泡之助」のふたりは、大学時代の同級生「午前二時」を訪ねて旅にでる。それは、常磐道を北上し、守谷、いわき、仙台、会津若松をめぐる。それはかつて十年前にこの三人で気ままに遊んだ旅の再現だった。もっとも午前二時(島田桃子)は、その行き先で待っている。彼女の結婚式を祝い、余興をするためにBBQ(篠崎大悟)と泡之助(亀島一徳)は、過去を懐かしむ旅を続けている。そのなかで守谷のインターチェンジでは役者の綾乃(望月綾乃)を拾い三人旅になる。そのうちに謎の占い師繭子(森本華)や少年MC聞こえる(井上みなみ)や金魚すくい(油井文華)や未亡人ドモホルンリンクル(石原朋香)らと知り合う。午前二時とかつてつきあっていた永井(江本祐介)も時空を超えて、旅する人々と絡む。現実と幻想の境目のなかを物語は浮遊していく。少年役を含めて、女優達が、ふたりの「弥次喜多」と関わっていく不思議が面白い。綾乃や繭子をはじめ個性が際立っている。
『BGM』がすぐれているのは、まず、奇想を持ち込むことで、演劇独自のロード・ムービーを成立させたことだ。リアルによらずに時空を自在にまたぐことのできる演劇ジャンルの特性を活かしつつ遊んでいる。
また、映画のロード・ムービーの多くが、ふたりの男の親密さが、ひとりの女性をあいだにおいて、より深まっていくところにある。その親密さはときにバイセクシュアルな関係ともなる。『BGM』は、たとえばつかこうへいの『蒲田行進曲』のように、銀ちゃん、ヤス、小夏のような固定的な三角関係を取らない。午前二時、アヤノ、占い師、ドモホルンリンクルのような謎の女性が点在し、それぞれの背景にある物語のすべては明かされずに宙づりになっている。加えて、女優が演じる少年ふたりがとびきり魅力的で、「いつかは大人にならなければならない」この物語の哀切な主題を体現している。
思い出深い場面がある。
砂浜でラップによる競争がある。音楽にあわせて、言葉を即興で紡いでいく。そのぎこちなさがまた胸を打つ。人はどんなに言いたいことがあっても、容易には言葉に出来ない。まして音楽に乗せられない。そのもどかしさのなかで若い時代は過ぎ、すでに大人になってしまった自分に気がつくのだろう。
旅のルートから思い出されるのは、東日本大震災による被害である。劇中、巻き貝のエピソードでは、青春18切符のCMコピーがたびたび登場する。あるメッセージがなにかの装置に保存されて、のちの世に伝えられたら。しかも青春18切符は年齢に関係なくだれでも購入できる。自由できままな日々はいつでも取り戻せる。そんな願いを私は読み取った。

美術は、杉山至、中村友美。ベールのような白いローブで見えそうで見えない現実を描く。衣裳は臼井梨恵でそれぞれの役に違ったグラデーションのレインボーカラーを選び示唆的であった。

下北沢、ザ・スズナリ。十九日まで。三重公演、仙台公演もある。

2017年9月3日日曜日

【劇評83】ケラリーノ・サンドロヴィッチ流の『ワーニャ伯父さん』

 現代演劇劇評 平成二十九年八月 新国立劇場小劇場

KERA流の『ワーニャ伯父さん』(アントン・チェーホフ作、上演台本・演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ)を観た。

原作を尊重しつつ、上演台本を作成する。稽古場で受けの芝居やタイミングのずれで、人間本来の滑稽を浮かびあがせていく。この手法はこれまでの『かもめ』『三人姉妹』から一貫している。本来AからBへと話しかけられているはずの台詞は、実はCへと投げかけられている。そんな演出家としての読みは、おそらくは上演台本を作る過程で明快になっていくのだろう。上演台本にギャグを入れることで笑いをつくりだすのではない。聞こえないふりをしたり、自分の都合のいいように相手の言葉や表情を解釈したりする人間のダメさ加減が、KERA演出の根幹にあるとよくわかった。

また、ドラマにおいて笑いを作りだすのは、権威をかさにきた人間を引きずり下ろし、また、忍従に耐える人間に崇高さを見いだす方程式によるものだろう。このような解釈は従来のチェーホフ上演になかったわけではないが、この舞台ではなにか「歪み」のようなものが演出に混在する。けれど、舞台であるからは演出の意図だけですべては終わらない。現実の上演ではキャスティングの問題が介入する。役者がこれまで背負ってきたイメージは、現代演劇においても、否応もなく役柄に影響を与える。

たとえば、退職した教授のセレブリャーホフの山崎一を過度に滑稽にしたために、なぜ段田安則のワーニャと黒木華のソーニャが長年仕送りをつづけてきたのかが不分明になる。極論すれば、ふたりはセレブリャーホフの正体を見破らずにここまできてしまった愚かさが終幕にいたって大きく見えてしまう。

あえていえば、宮沢りえのエレーナが突出しているために、この特権的な美貌と魅力を持った存在が、いかに例外なく周囲の人間を変え、そして静かな領地が恋愛の戦場へと変わっていったか。関係性の変化の物語として成立している。

山崎のセレブリャーホフは、終幕、この館を去るにあたって、宮沢の妻エレーナと横田栄司のアーストロフの抱擁を目撃している。この衝撃を受けて、別れの挨拶がある。ケラリーノ・サンドロヴィッチの上演台本は手元にないので、標準的な神西清訳を引用する。

セレブリャーコフ(ソーニャに接吻して)さようなら……皆さん、ご機嫌よう! (アーストロフに手を差し伸べて)愉しくご交際を頂いてありがとう。……わたしはもとよりあなたの物の考えようや、あなたの熱心や感激性を、大いに尊重します。だが一つだけ、この年に免じて、お別れのしるしに、一言忠告をゆるして頂きたい。皆さん、仕事をしなければいけませんぞ! 仕事をしなければ! (一同に頭をさげる)ではご機嫌よう!(退場)

とある。

さきにアーストロフに手を差し伸べられたのを拒んでおきながら、ここでは握手をする。しかし、私の聞いた限りでは、「熱心」を「熱情」に言いかえて、台詞を立てている。つまりは、全体に対する別れの挨拶ではなく、アーストロフに対する嫌味ともなっている。

これを「偉大なチェーホフ」を卑小にしたというべきではない。むしろ、ワーニャやソーニャを含めて、人々を「チェーホフの懸命に生きる人物」から解放した。ありきたりの人間に突然起こった心の嵐と捉えたいと思う。

段田のワーニャは、老年の入口にいる人間の絶望が見える。宮沢のエレーナは、夫と不釣り合いな美貌で舞台を圧する。『桜の園』のラネーフスカヤが射程に入っているのだろう。ウォイニーツカヤ夫人は、かたくなで難しい役だが立石涼子が、かつての魅力をしのばせる美しい声で演じている。

アーストロフは難しい役だ。クロロフォルムで患者を殺してしまった苦悩、エレーナに対するどうにもならないエロティックな思い、ソーニャに対する鈍感さは、チェーホフ独特の人格的に分裂したインテリゲンチャとして描かれている。かつてはよかった。けれど、今はくたびれている。
横田はこの一貫しない医師の役をくたびれきった元美青年ではなく、まだエレーナを「番小屋」へ誘惑できると根拠なく確信している男として描き出した。

乳母マリーナの水野あやは、館全体を体現し、サモワールをひたすら守る存在として劇全体の基調を作る。ギター演奏は伏見蛍。

宮沢りえ、黒木華に生彩があり、ふたりの代表作となるべき舞台となった。
九月二十六日まで。新国立劇場小劇場。