現代演劇劇評 平成二十九年四月 彩の国さいたま芸術劇場NINAGAWA STUDIO(大稽古場)
演出家蜷川幸雄の一周忌も近い。彩の国さいたま芸術劇場の大稽古場で、GEKISHA NINAGAWA STUDIOによる『2017・待つ』が上演されている。この『待つ』のシリーズは、一九八四年の夏に蜷川が立ち上げた若い世代を中心とする集団によってたびたび上演されている。俳優たちが自分たちで見つけてきたテキストを元にしたエチュードを再構成した作品である。テキストは戯曲とは限らない。小説やエッセイを含む場合もあった。いわば作家の言葉をいかに舞台化するか、俳優自身の能力が厳しく問われる戦場であった。オムニバスである以上、全体としての一貫性は整えにくいが、そのかわりに俳優にとっての言葉、俳優にとっての身体言語を考える契機となるので、私はこのシリーズを好んできた。
今回は、飯田邦博、井上尊晶、大石継太、岡田正、新川將人、清家栄一、妹尾正文、塚本幸男、野辺富三、堀文明の連名で「ぼくらの現在の演劇と根拠はここにあるのか?」を問うとパンフレットに記されている。上演順に演目を上げる。1&3、シェイクスピアの「マクベス」「ハムレット」「オセロー」。2、アラバールの「戦場のピクニック」。4、清水邦夫の「花飾りも帯もない氷山よ」。5、ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアークレイジー」幸田文「終焉」小澤僥謳「俳優小澤栄太郎ー火宅の人」。6、前田司郎「逆に14歳」。7、田丸雅智「キャベツ」。8、レジナルド・ローズ「十二人の怒れる男」が次々と上演されていった。2にはさいたまゴールド・シアターやネクスト・シアターの俳優が、6にはさいたまネクストシアターの俳優も参加している。
上演をめぐる手法は、これまでの「待つ」と同じであっても、全体の印象は、まぎれもなく2017年の現在を表していた。1と3でいえば、シェイクスピアの悲劇の稽古は、常に携帯電話で中断される。2では、戦場はもはや観光地と化して、世界中をあまねく覆っている。6では、男と男の関係も、老いと方言がなくては、舞台の言葉としては成立がむずかしい。7は、キャベツが人間の脳にとってかわる奇想を元にした話だが、人工知能が人間の仕事を奪う現在が問われる。8のよく知られた戯曲も、独裁と排他主義によって危機に陥っている世界の現実を反映している。
それぞれにおもしろさがあったが、なにより言葉と身体を、舞台上に根が生えたように成立させる俳優を、蜷川は育てたのだと思った。「待つ」が頻繁に上演されていた1990年代のはじめと比べれば、当時から出ている俳優には若さはない。むきだしの野心もない。そのかわりに、言葉を踏みしめ、身体を舞台のために投企する、まっとうな俳優がいた。まぎれもなく蜷川幸雄の遺産が、ここにある。
待つとは、怠けることと同義ではない。時間は刻々と進み、私たちは老いへと一歩一歩歩みをすすめていく。時間にむけて挑んだ闘いは、果たして世界を変える力を持ち得たのか。厳しい問いを観客にも突きつける舞台となった。4月27日から30日。5月11日から14日まで。
2017年4月29日土曜日
2017年4月20日木曜日
【劇評72】永遠は憧れであり、残酷のまたの名。美輪明宏の『近代能楽集』
現代演劇劇評 平成二十九年四月 新国立劇場中劇場
老いの残酷は、ひとしく人間を襲う。けれど若い時代に美貌を誇った者ほど、容色の衰えは刑罰のように苛烈に襲ってくる。
三島由紀夫が能曲を新たに再創造した『近代能楽集』のなかから「葵上」と「卒塔婆小町」が二本立てで上演された。いずれも演出・美術・衣裳・音楽・振付、そして主演は美輪明宏で、稀代の表現者の美意識によって貫かれている。
それにしても、美とはいかに困難で複雑なものか。現代はシンプルなモダニズムがたやすい美の典型として多くの人間に好まれる。それに対して、悪趣味とそしられるのを怖れず、美とはつねに更新され、前衛的であるべきとの考えが一方に存在する。たとえば「葵上」では、琳派を思わせる巨大な裲襠とベッド、両脇にはサルバドール・ダリの溶けた時計をモチーフとしたオブジェやソファがある。電話台は裸体の彫刻の腹となっている。ここには腐りかけた階級だけが理解出来る美がある。大量生産品を拒み、決然と孤高であることを選んだ人間の屹立した姿がある。
しかし、「葵上」は、生霊の存在をまるごと信じられなくなった現代人にとっては理解できない構造を持っている。源氏物語の一挿話は、三島の出自たる階級とその言葉が崩壊したときに、決定的に滅びる運命にあったと今回の舞台を観てよくわかった。
また、「卒塔婆小町」は、若さの特権的な美を終戦直後の東京で占有した丸山(明宏)の神話によって胸を打つ。パンフレットに収められた輝かしいばかりの「男装の麗人」ぶり、それから九十九年には満たないまでも、遙かな時間が過ぎて、麗人はまぎれもなく老婆になった。それでもかつての舞台では、公園から鹿鳴館に場が替わったときに、舞台の中心でハチャトゥリアンの仮面舞踏会の華麗な音曲に乗って、中心で木村彰吾の詩人すなわち深草少将(少尉)と踊ることができた。けれど、今回は扇をかわりに舞わせるばかりで、美輪本人が踊る姿を見られない。その残酷が三島の物語に深く楔を打つ。
幕切れ、またしても老婆は贋の詩人にあって、幻想の恋愛を始めるのだろう。美と恋愛をめぐる永遠の連鎖。永遠は憧れであり、残酷のまたの名でもあった。五月三十日まで全国を巡演。
老いの残酷は、ひとしく人間を襲う。けれど若い時代に美貌を誇った者ほど、容色の衰えは刑罰のように苛烈に襲ってくる。
三島由紀夫が能曲を新たに再創造した『近代能楽集』のなかから「葵上」と「卒塔婆小町」が二本立てで上演された。いずれも演出・美術・衣裳・音楽・振付、そして主演は美輪明宏で、稀代の表現者の美意識によって貫かれている。
それにしても、美とはいかに困難で複雑なものか。現代はシンプルなモダニズムがたやすい美の典型として多くの人間に好まれる。それに対して、悪趣味とそしられるのを怖れず、美とはつねに更新され、前衛的であるべきとの考えが一方に存在する。たとえば「葵上」では、琳派を思わせる巨大な裲襠とベッド、両脇にはサルバドール・ダリの溶けた時計をモチーフとしたオブジェやソファがある。電話台は裸体の彫刻の腹となっている。ここには腐りかけた階級だけが理解出来る美がある。大量生産品を拒み、決然と孤高であることを選んだ人間の屹立した姿がある。
しかし、「葵上」は、生霊の存在をまるごと信じられなくなった現代人にとっては理解できない構造を持っている。源氏物語の一挿話は、三島の出自たる階級とその言葉が崩壊したときに、決定的に滅びる運命にあったと今回の舞台を観てよくわかった。
また、「卒塔婆小町」は、若さの特権的な美を終戦直後の東京で占有した丸山(明宏)の神話によって胸を打つ。パンフレットに収められた輝かしいばかりの「男装の麗人」ぶり、それから九十九年には満たないまでも、遙かな時間が過ぎて、麗人はまぎれもなく老婆になった。それでもかつての舞台では、公園から鹿鳴館に場が替わったときに、舞台の中心でハチャトゥリアンの仮面舞踏会の華麗な音曲に乗って、中心で木村彰吾の詩人すなわち深草少将(少尉)と踊ることができた。けれど、今回は扇をかわりに舞わせるばかりで、美輪本人が踊る姿を見られない。その残酷が三島の物語に深く楔を打つ。
幕切れ、またしても老婆は贋の詩人にあって、幻想の恋愛を始めるのだろう。美と恋愛をめぐる永遠の連鎖。永遠は憧れであり、残酷のまたの名でもあった。五月三十日まで全国を巡演。
2017年4月19日水曜日
【劇評71】砕け散った鏡と内野聖陽のハムレット
現代演劇劇評 平成二十九年四月 東京芸術劇場プレイハウス
斬新きわまりない『ハムレット』(ジョン・ケアード演出、松岡和子訳)を観た。劇の冒頭、この作品でもっとも重要とされる台詞"Tobe, or not to be"に相当する訳「あるか、あらざるか、それが問題だ」が、ハムレット自身の独白ではなく、全体によって言葉になる。
この訳はこれまでの松岡和子訳「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」とは異なっている。パンフレットを見ると翻訳の下に、上演台本として、演出家のジョン・ケアードと、今井麻緒子のクレジットがあり、台本を作成するために、既成の松岡訳(ちくま文庫版)そのままではなく、演出家の意を受けた変更が行われたとわかる。飜訳者にとっては、過酷な作業があったろうと想像がついた。
近現代のハムレット像は、胡桃の中の世界に閉じこもり、世界の苦悩をひとり引き受ける陰鬱な青年であった。しかし、デンマークの王子で、理不尽な運命に翻弄されたとしても、キリストのように世界全体を引き受けるような時代は明らかに去った。演出家の蜷川幸雄は『ハムレット』について、「彼は世界の中心でいられなくなってしまいつつある。主人公が時代を映す鏡だとしたら、その鏡は砕けきって、つなぎあわせない限り、ひとつの像を結べなくなっている」(『演出術』ちくま文庫)と語っている。
こうした認識をジョン・ケアードは、さらに発展させる。ハムレットの苦悩を分かち合う存在として親友のホレーショー(北村有起哉)がいるが、忠実な臣下であるよりは、あたかもハムレットの分身であるかのようだ。また、松岡自身がパンフレットに書いているが、ハムレットはラストシーンで、甲冑をかぶると新しい世代を代表するフォーティンブラスとなる。つまりは、ハムレットの内野聖陽は、この二つの役を兼ねるわけだ。
また、これ以降は、すでに作品をご覧になってからお読みいただきたいが、第四幕第五場で狂いのなかにあり、さらに溺死してしまうオフェーリアは、ハムレットとレアティーズの剣の試合を司るオズリックとなるのだ。狂気のさなかで死んだ若き女性は、銀髪の廷臣となってあたかも転生したかのようだ。つまりは貫地谷しほりは、オフェーリアとオズリックの二役を兼ねることになる。
おそらくは他に類例が少ないだろうこの二役によって、私という存在がいかに世界と向き合うかを考え詰めてきた近代的自我が、やすやすと分裂してしまう。ハムレットの中断された権力への意志は、フォーティンブラスとなってこの世界に生き延びる。誤りとはいえ愛するハムレットにわが父を殺された無念がこの世にまだ彷徨っていて、オズリックに乗り移ったとも考えることができる。
さらに悪であることに怯まない國村隼のクローディアス、自己の分裂をやすやすと受け入れる浅野ゆう子のガードルードの好演によって、ハムレットとオフェーリアは善で被害者、クローディアスとガートルードは悪で加害者といったような二分法が崩れ、四者の関係がつねに自在に動いていると実感させる。
さらにいえば、山口馬木也のローゼンクランツや今拓也のギルデンスターンも、単なる愚かな道化役ではない。クローディアスに忠実な小悪党ではあるが、才能や倫理感に恵まれないふたりでさえも、与えられた短い生を懸命に生き延びようしている。
つまりは、すべての登場人物によって、冒頭のように、「あるか、あらざるか、それが問題だ」と呟き続けているように思える。この問題から逃れられる人間などこの世界には存在しないのだと語っている。
書き落とせないのは、もっとも重要な準主役の壤晴彦のポローニアス、村井国夫の墓堀りの存在だろう。愚かさと賢さは表裏一体であり、いずれにしろこの世におさらばすれば、しゃれこうべとなって、冷たく湿った地の下に眠る他ないのだと語っている。その断念の深さ、生の残酷さが胸を打つ。
幕切れについて書く。未見でありながら、ここまで読み進めてしまった読者は、このあたりで中断をおすすめする。
『ハムレット』の幕切れは、ホレイショーをのぞく主要な人物がすべて死ぬことで知られている。死屍累々のなかで、ホレイショーは天を仰ぎ、救済を求めるように両の手を伸ばす。倒れていたクローディアスもガートルードも舞台奥の明るい彼方へと去って行く。フォーティンブラスは兜を脱ぎ捨てて、彼方へ去る。オズリックも銀髪を脱ぎ捨てて彼方に去る。舞台奥の彼方は死後の世界なのか。それとも人類の墓場なのかはわからない。暗闇のなかにひとり取り残されたホレーショーは能舞台でいえば橋懸かりに相当する舞台左袖へと伸びる通路を重い足取りで去って行く。
私にはこの光景は、地球の生物がすべて死に絶えた後に、神の意志で一人残された者に思えてならなかった。死ぬことはだれでも出来る。けれど死ぬことさえも許されない者がいる。テロと内戦のただなかにいる人類は、この警鐘に耳を澄まさなければならない。二十八日まで。
斬新きわまりない『ハムレット』(ジョン・ケアード演出、松岡和子訳)を観た。劇の冒頭、この作品でもっとも重要とされる台詞"Tobe, or not to be"に相当する訳「あるか、あらざるか、それが問題だ」が、ハムレット自身の独白ではなく、全体によって言葉になる。
この訳はこれまでの松岡和子訳「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」とは異なっている。パンフレットを見ると翻訳の下に、上演台本として、演出家のジョン・ケアードと、今井麻緒子のクレジットがあり、台本を作成するために、既成の松岡訳(ちくま文庫版)そのままではなく、演出家の意を受けた変更が行われたとわかる。飜訳者にとっては、過酷な作業があったろうと想像がついた。
近現代のハムレット像は、胡桃の中の世界に閉じこもり、世界の苦悩をひとり引き受ける陰鬱な青年であった。しかし、デンマークの王子で、理不尽な運命に翻弄されたとしても、キリストのように世界全体を引き受けるような時代は明らかに去った。演出家の蜷川幸雄は『ハムレット』について、「彼は世界の中心でいられなくなってしまいつつある。主人公が時代を映す鏡だとしたら、その鏡は砕けきって、つなぎあわせない限り、ひとつの像を結べなくなっている」(『演出術』ちくま文庫)と語っている。
こうした認識をジョン・ケアードは、さらに発展させる。ハムレットの苦悩を分かち合う存在として親友のホレーショー(北村有起哉)がいるが、忠実な臣下であるよりは、あたかもハムレットの分身であるかのようだ。また、松岡自身がパンフレットに書いているが、ハムレットはラストシーンで、甲冑をかぶると新しい世代を代表するフォーティンブラスとなる。つまりは、ハムレットの内野聖陽は、この二つの役を兼ねるわけだ。
また、これ以降は、すでに作品をご覧になってからお読みいただきたいが、第四幕第五場で狂いのなかにあり、さらに溺死してしまうオフェーリアは、ハムレットとレアティーズの剣の試合を司るオズリックとなるのだ。狂気のさなかで死んだ若き女性は、銀髪の廷臣となってあたかも転生したかのようだ。つまりは貫地谷しほりは、オフェーリアとオズリックの二役を兼ねることになる。
おそらくは他に類例が少ないだろうこの二役によって、私という存在がいかに世界と向き合うかを考え詰めてきた近代的自我が、やすやすと分裂してしまう。ハムレットの中断された権力への意志は、フォーティンブラスとなってこの世界に生き延びる。誤りとはいえ愛するハムレットにわが父を殺された無念がこの世にまだ彷徨っていて、オズリックに乗り移ったとも考えることができる。
さらに悪であることに怯まない國村隼のクローディアス、自己の分裂をやすやすと受け入れる浅野ゆう子のガードルードの好演によって、ハムレットとオフェーリアは善で被害者、クローディアスとガートルードは悪で加害者といったような二分法が崩れ、四者の関係がつねに自在に動いていると実感させる。
さらにいえば、山口馬木也のローゼンクランツや今拓也のギルデンスターンも、単なる愚かな道化役ではない。クローディアスに忠実な小悪党ではあるが、才能や倫理感に恵まれないふたりでさえも、与えられた短い生を懸命に生き延びようしている。
つまりは、すべての登場人物によって、冒頭のように、「あるか、あらざるか、それが問題だ」と呟き続けているように思える。この問題から逃れられる人間などこの世界には存在しないのだと語っている。
書き落とせないのは、もっとも重要な準主役の壤晴彦のポローニアス、村井国夫の墓堀りの存在だろう。愚かさと賢さは表裏一体であり、いずれにしろこの世におさらばすれば、しゃれこうべとなって、冷たく湿った地の下に眠る他ないのだと語っている。その断念の深さ、生の残酷さが胸を打つ。
幕切れについて書く。未見でありながら、ここまで読み進めてしまった読者は、このあたりで中断をおすすめする。
『ハムレット』の幕切れは、ホレイショーをのぞく主要な人物がすべて死ぬことで知られている。死屍累々のなかで、ホレイショーは天を仰ぎ、救済を求めるように両の手を伸ばす。倒れていたクローディアスもガートルードも舞台奥の明るい彼方へと去って行く。フォーティンブラスは兜を脱ぎ捨てて、彼方へ去る。オズリックも銀髪を脱ぎ捨てて彼方に去る。舞台奥の彼方は死後の世界なのか。それとも人類の墓場なのかはわからない。暗闇のなかにひとり取り残されたホレーショーは能舞台でいえば橋懸かりに相当する舞台左袖へと伸びる通路を重い足取りで去って行く。
私にはこの光景は、地球の生物がすべて死に絶えた後に、神の意志で一人残された者に思えてならなかった。死ぬことはだれでも出来る。けれど死ぬことさえも許されない者がいる。テロと内戦のただなかにいる人類は、この警鐘に耳を澄まさなければならない。二十八日まで。
2017年4月18日火曜日
【劇評70】自らの狂いに知性的な大竹しのぶのフェードル
現代演劇劇評 平成二十九年四月 シアターコクーン
ラシーヌの『フェードル』をほぼ十五年ぶりに観た。前回、観たのはパリでの公演だったから、戯曲の言葉から立ち上がるこの悲劇を観るのは、ずいぶん久しぶりになる。
栗山民也演出の今回の『フェードル』は、装置といい、照明といい、衣裳といいスタッフワークは、フランス演劇の趣味を強く意識している。おそらくは独特な言葉の文化によって支えられた台詞劇を現代日本で成立させるためには、このような手続きが必要なのだろう。
さて、義理の息子への若き母の恋慕を主な筋とした『フェードル』は、歌舞伎の『摂州合邦辻』との類似がつとに言われる。けれど「合邦庵室」のみならず通しの上演と比較しても、ラシーヌの戯曲は緻密かつ異様なまでに理性的である。自らの狂いに対して知性的な人間を描いたといったらいいすぎだろうか。あるいはこう言いかえることも出来る。自らを狂わせるだけの知性をそなえている。
この至難な戯曲を成立させるためには、ハムレット役者に相当するフェードル役者がいなければならぬ。円熟の極みにある大竹しのぶがあっての上演であり、その感情の振幅は激しく、表情の豊かさは大海を思わせ、朗唱の技巧は冴え渡っている。イポリット(平岳大)への想いを募らせる前半、そしてエノーヌ(キムラ緑子)の奸計に乗せられいたものが、いざ夫のテゼ(今井清隆)が健在とわかり、すべてが破綻するとエノールを追い出す身勝手さ。可憐なアリシー(門脇麦)への残酷まで、すべてが圧倒的であった。
女優大竹しのぶは、蜷川幸雄演出の『欲望という名の電車』(二〇〇二年)、『エレクトラ』(二〇〇三年)、『メディア』(二〇〇五年)において、等身大の人間を超越した存在を演じる資質はすでに証明済みだったが、言語と身体の極限に位置するこの戯曲全体を圧するだけの力量に達しているとは驚嘆せざるを得ない。谷田歩のテラメーヌ、斉藤まりえのパノープ、藤井咲有里のイスメーヌ、いずれも品位をそなえて行儀のいい演技である。今年度を代表する舞台と早くも出会った。三十日まで。Bunkamuraシアターコクーン。
ラシーヌの『フェードル』をほぼ十五年ぶりに観た。前回、観たのはパリでの公演だったから、戯曲の言葉から立ち上がるこの悲劇を観るのは、ずいぶん久しぶりになる。
栗山民也演出の今回の『フェードル』は、装置といい、照明といい、衣裳といいスタッフワークは、フランス演劇の趣味を強く意識している。おそらくは独特な言葉の文化によって支えられた台詞劇を現代日本で成立させるためには、このような手続きが必要なのだろう。
さて、義理の息子への若き母の恋慕を主な筋とした『フェードル』は、歌舞伎の『摂州合邦辻』との類似がつとに言われる。けれど「合邦庵室」のみならず通しの上演と比較しても、ラシーヌの戯曲は緻密かつ異様なまでに理性的である。自らの狂いに対して知性的な人間を描いたといったらいいすぎだろうか。あるいはこう言いかえることも出来る。自らを狂わせるだけの知性をそなえている。
この至難な戯曲を成立させるためには、ハムレット役者に相当するフェードル役者がいなければならぬ。円熟の極みにある大竹しのぶがあっての上演であり、その感情の振幅は激しく、表情の豊かさは大海を思わせ、朗唱の技巧は冴え渡っている。イポリット(平岳大)への想いを募らせる前半、そしてエノーヌ(キムラ緑子)の奸計に乗せられいたものが、いざ夫のテゼ(今井清隆)が健在とわかり、すべてが破綻するとエノールを追い出す身勝手さ。可憐なアリシー(門脇麦)への残酷まで、すべてが圧倒的であった。
女優大竹しのぶは、蜷川幸雄演出の『欲望という名の電車』(二〇〇二年)、『エレクトラ』(二〇〇三年)、『メディア』(二〇〇五年)において、等身大の人間を超越した存在を演じる資質はすでに証明済みだったが、言語と身体の極限に位置するこの戯曲全体を圧するだけの力量に達しているとは驚嘆せざるを得ない。谷田歩のテラメーヌ、斉藤まりえのパノープ、藤井咲有里のイスメーヌ、いずれも品位をそなえて行儀のいい演技である。今年度を代表する舞台と早くも出会った。三十日まで。Bunkamuraシアターコクーン。
2017年4月4日火曜日
【劇評69】春宵一刻値千金。吉右衛門、菊之助の「吃又」
歌舞伎劇評 平成二十九年四月 歌舞伎座
春宵一刻値千金。
書き下ろしの仕事も一段落して、あとは刊行を待つばかり。今月からこのブログによる劇評もそろりそろりと再開します。
四月大歌舞伎の昼の部は、鴈治郎、扇雀を中心に右團次、門之助、松也らと若手がこの春を言祝ぐ『醍醐の花見』。こうした俳優の個性をゆったりと楽しむ踊りには、理屈はない。ただ、春宵ならぬ春の昼をかけがえのないものとして味わう気持、さらにいえば、この一刻はもう二度と戻っては来ない無常観が現れればなおよい。思えば季節は、俳優のそして歌舞伎の人生の比喩ともなりえるのだった。
次いで『伊勢音頭恋寝刃』の半通し。おなじみの油屋に至るまでの三場。追駆け、地蔵前、二見ヶ浦は、特に前半、近年幹部となった橘三郎、橘太郎のチャリを含めた身体のこなしを楽しむ場となった。
染五郎の貢、猿之助の万野が初役。秀太郎が万次郎に回るなど清新な配役だが、幕が開いて二日目とあって、まだお互いの息を見定めている段階だったのだろう。染五郎は生真面目な御師が狂気へと至る過程を唐突な飛躍ではなく、辛抱の末ととらえて、順を追って埋めていこうとしている。
猿之助の万野には、ふっと六代目歌右衛門の影がよぎる。この役は単に狂言回しではなく、この廓を仕切る中心にある、いわば精神のようなものだと認識している。その万野の覚悟をにじませようとしているのが特長だ。代役で替わった京妙の千野とともに、表面はにこやかで美しい仲居たちの底意地の悪さがよく出ていた。料理人喜助は、松也。色気があるこの人を喜助とは驚いたが、それでも役にしてしまうところがこの人の進境。梅枝のお紺は魅力にふくらみがあって、いずれは『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋へと進むだけの才質がそなわっていると確認できた。米吉のお岸に善良さがあり、このあたりは俳優の持ち味で大切にしたい。萬次郎のお鹿は腕のある人だから文句はない。顔の化粧は控えめでも十分説得力があるだけの力量がそなわっている。
昼の部の切りは、時代物の大物『熊谷陣屋』。幸四郎の熊谷は「出」から赤っ面で、従来の團十郎型に、芝翫型を取り入れる意欲にあふれている。刻々と心理の動きを描写するのではなく、ただ、自分の犯した罪科に身を苛んでいく男の鬱屈した精神がありのままに伝わってきた。本来、近代的な芸質の役者だが、今回時代物を新しいやり方で乗り越え、自分のものとしたい覚悟が伝わっていた。ただ、次回、手がけるのであれば、芝翫型をより積極に取り入れ、花道をひとりで引っ込む演出を疑うところにまで踏み込んでもらいたいと思った。相模は猿之助。夜の『奴道成寺』とともに大活躍だが、この熊谷の妻も沈潜して、ひたすら辛抱する役だけに年季がいる。
あるいは、猿之助の将来はこうした武家の女房の大役になるのではと思う。それだけに、順を追って手がけ、ひとつひとつの積み上げが大切になる。あせらず、迷わず、歌舞伎座を背負う大きな女方として大成してもらいたい。
夜の部の『傾城反魂香』は、吉右衛門の手に入った当り役だが、菊之助のおとくを得てこれまでとは一変した。本来、吉右衛門は実悪、しかも国崩しまでできる英雄役者だと思う。又平は一介の大津絵師であり、これまでは大きな身体を持てあまして、吃音に苦しむ小心な男を演じていた。今回は違う。英雄役者が又平を演じるのではない。ただひたすら絵師として、人間として大成したい心持ちの又平が、ごく自然に舞台にいるのだ。だからこそ、心持ちが若くなる。これから出世していきたい、土佐の名を許されれば本当にありがたい。ひたすらな願いと率直な野心が宿る又平であった。
人生には岐路がある。この時を逃せば、もう、未来はないのかもしれぬ。立身出世のとばくちに立った男の切実な真情が伝わってきた。すでにこの役を見事に演じてきた名優が、新たな気持ちで役の性根をとらえ直す。この青年のような若さは、いったいどこから生まれたものか。俳優とはいつなんどき、どんなきっかけをも生かして変化していく。そんな力を持つのだと実感した。
菊之助のおとくは初役。女方としてきっちりと裏の仕事ができること。生来、恵まれた声を生かしていること。いずれもいいが、おとく役の少しくどい灰汁のような性格は、この俳優にはないものだろう。そのかわりに又平の絵師としての才能を微塵も疑わない率直さ、まっすぐさがあってふたりの関係が清涼なものとなった。しゃべらない、しゃべりすぎのお互いの欠点を補い合って夫婦関係が成り立っているのでない。まず又平の才能への信頼、そしておとくの真摯なありかたに又平はたよっている。この情愛がよいかたちで出た。
さて、お半、長兵衛の『帯屋』。ただひたすらうつむいて耐えている辛抱立役の長兵衛を藤十郎が勤める。染五郎の儀兵衛、扇雀のお絹、長吉、お半二役の壱太郎、隠居繁斎の寿治郎、義父おとせの吉弥と脇が見事に揃って、上方狂言らしい言葉の綾と綾がからみあう執拗な劇として成立している。
とりわけ嫌味な義弟を演じる染五郎、屈辱のなかでも家を守り通そうとする女房の扇雀が飛び抜けていい。
お半が書き置きを戸口に残して花道を去る。下駄にのったその手紙を見つけた長兵衛はあかりのある家内に戻るがその階段で藤十郎が転ぶアクシデントがあった。その場では無事なんともなかったが、藤十郎の年齢を考えるとこの件りをやや簡略化する手立てもあるのではないか。
最後は猿之助の『奴道成寺』。まったく過不足のない出来で、才質を見せつける。娘道成寺以上に、三ッ面を使うなど趣向の芝居なので、全体のおおらかな雰囲気を忘れないのが肝要だ。細部がよくできているからこそ、全体が取り落とされる危険がときにある。幕切れ、金の鱗をまとって大袈裟にならずにさらっと終えたのは粋であった。(三日所見。二十六日まで)
春宵一刻値千金。
書き下ろしの仕事も一段落して、あとは刊行を待つばかり。今月からこのブログによる劇評もそろりそろりと再開します。
四月大歌舞伎の昼の部は、鴈治郎、扇雀を中心に右團次、門之助、松也らと若手がこの春を言祝ぐ『醍醐の花見』。こうした俳優の個性をゆったりと楽しむ踊りには、理屈はない。ただ、春宵ならぬ春の昼をかけがえのないものとして味わう気持、さらにいえば、この一刻はもう二度と戻っては来ない無常観が現れればなおよい。思えば季節は、俳優のそして歌舞伎の人生の比喩ともなりえるのだった。
次いで『伊勢音頭恋寝刃』の半通し。おなじみの油屋に至るまでの三場。追駆け、地蔵前、二見ヶ浦は、特に前半、近年幹部となった橘三郎、橘太郎のチャリを含めた身体のこなしを楽しむ場となった。
染五郎の貢、猿之助の万野が初役。秀太郎が万次郎に回るなど清新な配役だが、幕が開いて二日目とあって、まだお互いの息を見定めている段階だったのだろう。染五郎は生真面目な御師が狂気へと至る過程を唐突な飛躍ではなく、辛抱の末ととらえて、順を追って埋めていこうとしている。
猿之助の万野には、ふっと六代目歌右衛門の影がよぎる。この役は単に狂言回しではなく、この廓を仕切る中心にある、いわば精神のようなものだと認識している。その万野の覚悟をにじませようとしているのが特長だ。代役で替わった京妙の千野とともに、表面はにこやかで美しい仲居たちの底意地の悪さがよく出ていた。料理人喜助は、松也。色気があるこの人を喜助とは驚いたが、それでも役にしてしまうところがこの人の進境。梅枝のお紺は魅力にふくらみがあって、いずれは『籠釣瓶花街酔醒』の八ッ橋へと進むだけの才質がそなわっていると確認できた。米吉のお岸に善良さがあり、このあたりは俳優の持ち味で大切にしたい。萬次郎のお鹿は腕のある人だから文句はない。顔の化粧は控えめでも十分説得力があるだけの力量がそなわっている。
昼の部の切りは、時代物の大物『熊谷陣屋』。幸四郎の熊谷は「出」から赤っ面で、従来の團十郎型に、芝翫型を取り入れる意欲にあふれている。刻々と心理の動きを描写するのではなく、ただ、自分の犯した罪科に身を苛んでいく男の鬱屈した精神がありのままに伝わってきた。本来、近代的な芸質の役者だが、今回時代物を新しいやり方で乗り越え、自分のものとしたい覚悟が伝わっていた。ただ、次回、手がけるのであれば、芝翫型をより積極に取り入れ、花道をひとりで引っ込む演出を疑うところにまで踏み込んでもらいたいと思った。相模は猿之助。夜の『奴道成寺』とともに大活躍だが、この熊谷の妻も沈潜して、ひたすら辛抱する役だけに年季がいる。
あるいは、猿之助の将来はこうした武家の女房の大役になるのではと思う。それだけに、順を追って手がけ、ひとつひとつの積み上げが大切になる。あせらず、迷わず、歌舞伎座を背負う大きな女方として大成してもらいたい。
夜の部の『傾城反魂香』は、吉右衛門の手に入った当り役だが、菊之助のおとくを得てこれまでとは一変した。本来、吉右衛門は実悪、しかも国崩しまでできる英雄役者だと思う。又平は一介の大津絵師であり、これまでは大きな身体を持てあまして、吃音に苦しむ小心な男を演じていた。今回は違う。英雄役者が又平を演じるのではない。ただひたすら絵師として、人間として大成したい心持ちの又平が、ごく自然に舞台にいるのだ。だからこそ、心持ちが若くなる。これから出世していきたい、土佐の名を許されれば本当にありがたい。ひたすらな願いと率直な野心が宿る又平であった。
人生には岐路がある。この時を逃せば、もう、未来はないのかもしれぬ。立身出世のとばくちに立った男の切実な真情が伝わってきた。すでにこの役を見事に演じてきた名優が、新たな気持ちで役の性根をとらえ直す。この青年のような若さは、いったいどこから生まれたものか。俳優とはいつなんどき、どんなきっかけをも生かして変化していく。そんな力を持つのだと実感した。
菊之助のおとくは初役。女方としてきっちりと裏の仕事ができること。生来、恵まれた声を生かしていること。いずれもいいが、おとく役の少しくどい灰汁のような性格は、この俳優にはないものだろう。そのかわりに又平の絵師としての才能を微塵も疑わない率直さ、まっすぐさがあってふたりの関係が清涼なものとなった。しゃべらない、しゃべりすぎのお互いの欠点を補い合って夫婦関係が成り立っているのでない。まず又平の才能への信頼、そしておとくの真摯なありかたに又平はたよっている。この情愛がよいかたちで出た。
さて、お半、長兵衛の『帯屋』。ただひたすらうつむいて耐えている辛抱立役の長兵衛を藤十郎が勤める。染五郎の儀兵衛、扇雀のお絹、長吉、お半二役の壱太郎、隠居繁斎の寿治郎、義父おとせの吉弥と脇が見事に揃って、上方狂言らしい言葉の綾と綾がからみあう執拗な劇として成立している。
とりわけ嫌味な義弟を演じる染五郎、屈辱のなかでも家を守り通そうとする女房の扇雀が飛び抜けていい。
お半が書き置きを戸口に残して花道を去る。下駄にのったその手紙を見つけた長兵衛はあかりのある家内に戻るがその階段で藤十郎が転ぶアクシデントがあった。その場では無事なんともなかったが、藤十郎の年齢を考えるとこの件りをやや簡略化する手立てもあるのではないか。
最後は猿之助の『奴道成寺』。まったく過不足のない出来で、才質を見せつける。娘道成寺以上に、三ッ面を使うなど趣向の芝居なので、全体のおおらかな雰囲気を忘れないのが肝要だ。細部がよくできているからこそ、全体が取り落とされる危険がときにある。幕切れ、金の鱗をまとって大袈裟にならずにさらっと終えたのは粋であった。(三日所見。二十六日まで)