2017年4月20日木曜日

【劇評72】永遠は憧れであり、残酷のまたの名。美輪明宏の『近代能楽集』

現代演劇劇評 平成二十九年四月 新国立劇場中劇場

老いの残酷は、ひとしく人間を襲う。けれど若い時代に美貌を誇った者ほど、容色の衰えは刑罰のように苛烈に襲ってくる。
三島由紀夫が能曲を新たに再創造した『近代能楽集』のなかから「葵上」と「卒塔婆小町」が二本立てで上演された。いずれも演出・美術・衣裳・音楽・振付、そして主演は美輪明宏で、稀代の表現者の美意識によって貫かれている。
それにしても、美とはいかに困難で複雑なものか。現代はシンプルなモダニズムがたやすい美の典型として多くの人間に好まれる。それに対して、悪趣味とそしられるのを怖れず、美とはつねに更新され、前衛的であるべきとの考えが一方に存在する。たとえば「葵上」では、琳派を思わせる巨大な裲襠とベッド、両脇にはサルバドール・ダリの溶けた時計をモチーフとしたオブジェやソファがある。電話台は裸体の彫刻の腹となっている。ここには腐りかけた階級だけが理解出来る美がある。大量生産品を拒み、決然と孤高であることを選んだ人間の屹立した姿がある。
しかし、「葵上」は、生霊の存在をまるごと信じられなくなった現代人にとっては理解できない構造を持っている。源氏物語の一挿話は、三島の出自たる階級とその言葉が崩壊したときに、決定的に滅びる運命にあったと今回の舞台を観てよくわかった。
また、「卒塔婆小町」は、若さの特権的な美を終戦直後の東京で占有した丸山(明宏)の神話によって胸を打つ。パンフレットに収められた輝かしいばかりの「男装の麗人」ぶり、それから九十九年には満たないまでも、遙かな時間が過ぎて、麗人はまぎれもなく老婆になった。それでもかつての舞台では、公園から鹿鳴館に場が替わったときに、舞台の中心でハチャトゥリアンの仮面舞踏会の華麗な音曲に乗って、中心で木村彰吾の詩人すなわち深草少将(少尉)と踊ることができた。けれど、今回は扇をかわりに舞わせるばかりで、美輪本人が踊る姿を見られない。その残酷が三島の物語に深く楔を打つ。
幕切れ、またしても老婆は贋の詩人にあって、幻想の恋愛を始めるのだろう。美と恋愛をめぐる永遠の連鎖。永遠は憧れであり、残酷のまたの名でもあった。五月三十日まで全国を巡演。