2016年8月13日土曜日

【劇評58】納涼歌舞伎の新作は、いかに。『東海道中膝栗毛』と『廓噺山名屋浦里』

 八月納涼歌舞伎が満員御礼を記録しているという。この猛暑にもかかわらず観客の好尚にあった番組が組めたのはなによりのことで、特に『ワンピース』以来、新作を待ち望む声が強く、また、それに対応する役者の側も速度を求められているのだと思う。鉄は熱いうちに打て、と芯に立つ役者は常に新しい企画を練っているのだろう。
さて、新作はまず、第二部の『東海道中膝栗毛』(十返舎一九原作より 杉原邦生構成 戸部和久脚本 市川猿之助脚本・演出)である。「膝栗毛」ものは弥次さん喜多さんが旅をしていれば、他に制約はない。お伊勢参りなのにラスベガスへ行ってもなんの問題もない。ただし『ワンピース』と比べると、特にスタッフワークにおいて作り込みが不足している。固定した映像でラスベガスの光景や噴水を表象するのは安易で、歌舞伎座の広い間口に投影されると、淋しい心地さえする。悪ふざけも歌舞伎のお得意だから、それに対して文句をつけるつもりはない、ただし、直近の出来事を引用する場合は、楽屋落ちになる危険がある。古典のパロディはともかく、パロディとして成立した新作をさらにパロディとするためには、慎重なさじ加減が必要だろう。いや、楽屋落ちも歌舞伎の大切な要素ですといわれれば、その通りです。
新しい観客がこれに懲りずに、また歌舞伎座に足を運んでくれるように望む。
三ヶ月にわたって歌舞伎座で奮闘し、宙乗りを毎月見せた猿之助は、才気溢れ、企画力にとんだ役者だけに、一作一作を大事にしていただきたい。金太郎、團子が子役として芝居をする。弥次郎兵衛は染五郎。喜多八が猿之助。
続いて第三部の『廓噺山名屋浦里』(くまざわあかね原作 小佐田定雄脚本 今井豊茂演出)は、筋立て、演出ともに手堅い。勘九郎の宗十郎は、謹厳実直な武士。藩の大名かが江戸留守居役を命ぜられ、他の藩の同輩とつきあううちに、吉原に相方をつくるように迫られていく。偶然出会った全盛の花魁浦里太夫(七之助)が、宗十郎の人柄に惚れて間夫とするファンタジーである。冒頭の場面、装置のしつらえが『鳥辺山』を思わせるので、観客は悲劇を予感するが、いやいや、偶然を頼む筋立てながら、巧みに芝居を運んでいく。扇雀の山名屋主人を巧みに受ける駿河太郎も出色の出来。彌十郎と亀蔵の執拗なイジメがおもしろい。
笑福亭鶴瓶が平成二十七年一月に落語として初演した噺の歌舞伎化。新作の歌舞伎化としては人情噺としてよくできている。その意味では破綻を怖れぬ『東海道中膝栗毛』とは対照的だ。成功不成功は、その月のこと。こうした新作が納涼歌舞伎だけではなく、年に二本、三本と上演されてはじめて、歌舞伎は現代演劇の中心となったといえるのだろう。勘三郎が志した道は遠いが、猿之助、勘九郎、七之助には、この道をいつまでも貫いていく意思が感じられ、頼もしく思った。二十八日まで。