2016年8月29日月曜日

【閑話休題57】新宿の夜 森山威男プロジェクト回想

新宿の夜
森山プロジェクト回想1


ついにたどりついた、いや、たどりつこうとしている。
森山威男さんのプロジェクトがはじまるきっかけとなったのは、もう五年以上前になるだろうか。
新宿の厚生年金会館裏、坂をだらりと下った鍋底にある『風花』で私はひとりで飲んでいた。いわずとしれた文壇バーで、かつては、今はなき中上健次が毎日のように沈んでいた。当時、このバーには「ラジカセ」という音楽機器があった。なにかの偶然で私が『ジョン・コルトレーンとジョニー・ハートマン』をカセットテープに入れて持参したところ、主人の紀久子さんがよくかけてくれた。
殴ると評判のあった中上さんが怖かったので、私は遅い時間にはあまり行かなかった。あるとき、紀久子さんが「あのテープもう一度入れてくれないかしら」というのである。聞けば中上さんが毎日のようにリクエストするので、テープが伸びてしまったという。「もちろんですよ」と当時三十代はじめだった私が請け負ったのはいうまでもない。
それから二十年以上の時がすぎた。
『風花』に行くのも、間が遠くなった。一年に一度か二度にいけばせいぜいである。それなのに、めずらしくカウンターに座っていたら、隣の額が秀でた紳士と話しはじめた。ジャズのこと、西部邁先生とここでよくお目にかかったことなど、話が弾んだ。
私はどうも人見知りする性格なのか、バーで隣り合った人と仲よくなったためしがない。それにもかかわらず、再会を約したのは、よほど話があったのだろう。
翌年の大学院の講義には、その紳士、松原隆一郎さんをゲストにお呼びした。松原さんは、小津安二郎の映画『晩秋』を題材に、日本の住環境と美意識についての興味深い話をしてくださった。ご講義の後、もちろん湯島の酒亭「しんすけ」で友好を深めたのはいうまでもない。
その場であったのか、それとも先のことだったのか。
松原さんが親しくされているドラマーの森山威男さんの話になった。フリージャズの技法について、今詳細な技術と精神を残しておかなければいけない。そんな野望が頭をもたげてきた。日を改めて、松原さんを阿佐ヶ谷のご自宅近辺に訪ねて、「ぜひ、やりましょう」となんら予算的裏付けもないのに、はじめることになった。それから間もなく、情熱さめやらぬ松原さんは、私の自宅まで詳細な打ち合わせのために来て下さった。
その後、このプロジェクトは科研費を受けて、藝大音楽学部音楽環境創造科の亀川徹さんも加わり、本格的な研究テーマとして始動することになる。
「やりましょう」
「やりましょう」
「やりましょう」
当事者の森山威男さんはじめ、多くの「やりましょう」がこだまして、ひとつのプロジェクトがはじまり、動き出す。そのまとめの時期に入って、回想をはじめた。
ところで、『ジョン・コルトレーンとジョニー・ハートマン』は、一九六三年にニューヨークで録音されている。それからもう半世紀がすぎて、さまざなまことがあった。生き残り、生き残った証を残したいと願う時期に、私もまた差しかかっている。