2016年8月26日金曜日

【劇評61】歌昇、種之助が果敢に挑む『双蝶会』の成果。

 歌舞伎劇評 平成二十八年八月 国立劇場小劇場 

今年で二回目となった双蝶会。歌昇、種之助の兄弟が、果敢に大作へと挑む勉強会である。今年は、『菅原伝授手習鑑』から「車引」と「寺子屋」。気宇壮大で、意気込みやよしというところだろう。
まずは「車引」。種之助の梅王丸、歌昇の松王丸。桜丸は梅丸が勤める。花道の出から本舞台、深編笠をかぶったやりとりから、金棒引きが出て、笠をとったあたりから、がぜん種之助のエネルギーが炸裂する。ときに力あまって声が割れたりもするが、梅王丸はまさしく荒事の役、多少の破綻などは咎めるに値しない。むしろ、全体にみなぎる力感、心にある「怒」の一文字、権威を怖れぬ稚気まで、現在、できる最高水準まで達している。
歌昇はすでに荒事に定評がある。松王丸に大きさがあり、しかも決まる型の美しさは、この役者がいずれは荒事の一翼を担う人材であると改めて証明した。
さて、「寺子屋」である。相応の中堅が演じてもなかなか一筋縄ではいかない大物である。それにもかかわらず、歌昇、種之助ともに、監修の吉右衛門に教わったことをたがわず素直にやっている。余計なことをつけたさない。役者としての野心はあるが、傲慢さがない。なのでかえって「寺子屋」の骨格が見えてきた。種之助の源蔵の出は、さすがに厳しい。絶対的な苦悩を漂わせるには、いかんせん若すぎる。それに対して首実検を控え、教え子の殺人が迫ってくるところの焦燥感がよく、忠義のために殺してもよいなどどは微塵も思っていない源蔵の苦悩がよく伝わってきた。
歌昇の松王丸も絶対的な大きさを問うては、さすがにまだ及ばない。けれども、かわりに梅枝の千代に泣くなとたしなめつつも、小太郎の立派な最期を聞いて泣き上げる件りに切迫感があった。これから機会を得て、二度、三度、いやもっと生涯を賭けて練り上げていく役なのだろう。米吉の小浪も可憐。さすがにこの座組で抜けているのは、梅枝だが、これまでのキャリアを考えると当然といえば当然だろう。けれども、こうした義太夫狂言で破綻がなく、竹本をよく聞き、丁寧に役を作っていく姿勢が、若手の見本となる。
この世代に責任と自覚が生まれるのも勉強会の効用だと思いつつ国立小劇場を後にした。来年も第三回開催が決定とのこと。八月五日、六日。頼もしい限りで嬉しく思った。