現代演劇劇評 平成二八年一月 東京芸術劇場プレイハウス
水族館の水槽は、遠く深海へと通じている。その深海では、どのような生物が生きているのか。かすかな光がきらめくなかで、銀の鱗をひらめかせながら、流動体となって身をくねらせ泳いでいく。その姿を見るとき、人間は限りなく死へと近づいていく。死を思うことに取り憑かれていく。
野田秀樹の新作『逆鱗』は、水族館と人魚が住む海底を往復する物語である。野田作品には、『キル』の井戸や『THE DIVER』の無意識のように垂直に降下するイメージが見られるが、ここでも地上と深海へのダイブが主題となっている。
まずは、提示されるイメージが優れている。冒頭、NINGYO(松たか子)がまとって出てくる衣装(ひびのこづえ)のフォルムは人とも魚とも、そのどちらでもない人魚のイメージを美的に捉えている。足元の裾には黒の地にスパンコールがきらめく。アンデルセンの童話やジロドゥの『オンディーヌ』の残影をまといつつ、彼女がいかに変身していくかが『逆鱗』の縦糸となっている。
劇の冒頭、舞台上手に巨大な水槽のイメージが現れる。魚の群れを演じるアンサンブルに囲まれて、NINOGYOがそっと立つ。特殊ガラスの小道具を組み合わせ歪み拡大した像が舞台上に現れる。海底に雪がひとひらふりかかる。それはいつか水族館で見た幻想的なイメージを呼びさまして、はかなく消え去っていく。『逆鱗』は水槽ばかりではなく、海底を大胆に泳ぎ渡る魚たちの回遊が鮮烈に描かれるが、やがて、そのイメージは美的なものにとどまらずに、破壊と自死へと連なる大戦末期の記憶へとつながっていく。
現在も上演中のため、後半、人でもなく、魚でもない存在とは何か。書くことをためらう。ただ、ふたつだけ、ここに言葉にしておきたいことがある。
ひとつは、水族館の館長にあたる鵜飼綱元(池田成志)、その娘鵜飼ザコ(井上真央)、人魚学者の柿本魚麻呂(野田秀樹)が、鵜に模した潜水夫たちを絶望的な死へと追いやっていくが、そこには責任を取る主体がない。見えない「上」へ責任を押しつけたまま権力者たちは、グロテスクな相貌を見せつけている。これは近代から現代に至るまで、繰り返し行われてきた日本人の悪行を生み出すシステムではないか。野田はこのシステムを徹底的に攻撃している。
また、指揮命令系統のなかでは、下士官に相当するサキモリ・オモウ(阿部サダヲ)の存在である。彼はありもしない戦果をでっちあげ、だれも本心をいえず、同調を強いる日本的な組織を代表する存在である。その犠牲者の先頭に立つモガリ・サマヨウ(瑛太)と潜水鵜たちは、自分の内心を自分で語ることを封じられている。その絶望の淵からしぼりでるように吐かれる言葉が『逆鱗』の核心にある。海底にはまだ、腐乱死体をのせた死の棺が眠っている。
私はこの劇に「だれも本当のことを言えなくなってしまった」現在の社会のありようを思う。それはつとに指摘されているように、言論を封じられたまま、反対を口にすることさえはばかられ、怒濤のように太平洋戦争へと突入していったあの時代の再現であった。
はじめは可愛らしいお嬢さんに見えた鵜飼ザコが、次第に巨大な悪に成長していく姿を井上が目に狂気を宿しつつ演じている。透明な声が次第に熱狂を帯びていく。
人でもなく、魚でもない松たか子は、台詞を歌うことを禁じられている。叙情的な死への讃歌へと陥ることなく、ただ海底で起こった悲劇を叙述する語り部としての役割をひたすら演じきったのだった。
東京芸術劇場での公演は、3月13日まで。続いて大阪、北九州を巡演。