二○○五年の初演から十年。伝説の『敦 ー山月記・名人伝ー』が帰って来た。キャストの大きな変更がある。初演と翌年の再演では「名人伝」の甘縄・老紀昌を勤めた万之介が亡くなったために、万作がこの役に替わった。また、「山月記」の李徴は、万作から萬斎となった。相手役は石田幸雄で変わらない。狂言師としての萬斎が充実期を迎えたために、全体に輝かしい身体が炸裂する。能・狂言の枠組みにとらわれずに、フィジカル・シアターとして自立した舞台となった。
「山月記」は、原作者中島敦の自意識がもうひとりの主人公でもある。冒頭、萬斎が演じる敦が、三人の分身を生み出す。舞台中央奥にいる萬斎の背後から、深田博治、高野和憲、月崎晴夫が次々と同じ衣装、扮装で立ち現れる。そこには名だたる詩家をめざして、狂い、虎となった李徴の狂おしいばかりの自意識が視覚化されている。自意識は自己愛と同義ではない。己の狂いを冷酷に突き放して観る自嘲までもが含まれている。そして、虎となった萬斎の跳躍が素晴らしい。この身体のように、詞章もまた華麗な言の葉を綴りたかった。その切ない願いと煩悶が込められていた。
「名人伝」は、藝が至るべき境地についての話である。日本の藝能者はついには、なにもしないところへゆっくりと歩みを進めていく。気力体力が充実し、技術も身につき、心境も安定したとき「名手」と呼ばれる。そののち「名人」となりおおせるためには、動きすぎる身体、溌剌たる精神を封じ込めなければならぬ。若き日の紀昌を勤める萬斎は、文字が創り出すイメージと格闘する。そこには耐えることのない修行がある。その先にある藝とは何か。
今回の名人伝は、すでに「名人」たる万作が老紀昌を勤めたために、藝能がいかなる境地をめざすべきかが示された。身体は一見、静かで淀みがないかに見える。けれどもその存在はひたすら大きい。身体のフォルムの美しさや動きのシャープさを超えて、内心の描き出すイメージが観客と共有される。その摩訶不思議なありようが手に取るように差し出されたのである。
2015年6月19日金曜日
2015年6月13日土曜日
【閑話休題14】ご仏前に文庫を供える
昨日、金曜日に岩波書店から見本本が出ますとの知らせがあった。
この間、単行本から文庫化を進めていた『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』の二冊が、十六日の発売を前にして、見本が整ったという。私は都合があったので自宅に郵送してもらうことにしたが、単行本のときに尽力してくださった編集者の中嶋さんが、三津五郎さんの事務所に連絡を取って、届けに伺うことになった。巳之助さんは歌舞伎座に出勤しているので不在だったが、ご仏前に案内され、できたての二冊をお供えしてきたと聞いた。
今、この二冊を手に取ってみると、単行本の装幀をそのまま生かしている。写真も三津五郎さんがご自分で選んだものを踏襲している。印刷、造本もよい出来である。もし、ご健在だったら、きっとよろこんでくださると思う。
書籍の奥付には、著作権者のクレジットが掲載される。校了のときに気がついたのだが、今回の岩波現代文庫版では、「坂東巳之助、長谷部浩 2015」となっている。ふたりのお姉様も賛成して、巳之助さんが著作権継承者と定まったと聞いた。当然といえば、当然のクレジットだが、これまで無意識に避けてきた三津五郎さんの逝去が、急に現実になったかのように迫ってきた。
悲しんでばかりはいられない。巳之助さんは、三津五郎さんの急逝にもかかわらず、それ以来、芝居を休むことなく、毎月歌舞伎に出勤している。
私も歌舞伎についての次の著作が待っている。迷いを振り切って、仕事を重ねたいと思う。それが、歌舞伎の未来を案じていた三津五郎さんへの供養になると信じている。
この間、単行本から文庫化を進めていた『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』の二冊が、十六日の発売を前にして、見本が整ったという。私は都合があったので自宅に郵送してもらうことにしたが、単行本のときに尽力してくださった編集者の中嶋さんが、三津五郎さんの事務所に連絡を取って、届けに伺うことになった。巳之助さんは歌舞伎座に出勤しているので不在だったが、ご仏前に案内され、できたての二冊をお供えしてきたと聞いた。
今、この二冊を手に取ってみると、単行本の装幀をそのまま生かしている。写真も三津五郎さんがご自分で選んだものを踏襲している。印刷、造本もよい出来である。もし、ご健在だったら、きっとよろこんでくださると思う。
書籍の奥付には、著作権者のクレジットが掲載される。校了のときに気がついたのだが、今回の岩波現代文庫版では、「坂東巳之助、長谷部浩 2015」となっている。ふたりのお姉様も賛成して、巳之助さんが著作権継承者と定まったと聞いた。当然といえば、当然のクレジットだが、これまで無意識に避けてきた三津五郎さんの逝去が、急に現実になったかのように迫ってきた。
悲しんでばかりはいられない。巳之助さんは、三津五郎さんの急逝にもかかわらず、それ以来、芝居を休むことなく、毎月歌舞伎に出勤している。
私も歌舞伎についての次の著作が待っている。迷いを振り切って、仕事を重ねたいと思う。それが、歌舞伎の未来を案じていた三津五郎さんへの供養になると信じている。
2015年6月7日日曜日
【劇評21】『新薄雪物語』と顔揃い
【歌舞伎劇評】平成二十七年六月 歌舞伎座
『新薄雪物語』は、上演困難な狂言である。歌舞伎の主要な役柄を網羅しているために、大顔合わせでないと成立しない。そのわりにドラマとしての実質が十分とはいえないから、顔合わせの豪華さの割には、観客が劇に感動するのはむずかしい。こうした狂言の限界があるからこそ、今回の上演では昼の部、もしくは夜の部のみで『新薄雪物語』を通し、完結させるのをやめて、昼の部は『天保遊侠録』で幕を開け、夜の部は『夕顔棚』で打ち出したのだろう。労多くして、成果に乏しいのは、だれのせいでもなくこの狂言の性格によるのものだ。とはいえ「虫干し」ではないが、現在の大立者が健在なうちに、規範として上演しておかなければならない。だから歌舞伎興行はむずかしい。
さて『新薄雪物語』の序幕は、満開の桜が咲き誇る新清水が舞台の「花見」。奴妻平(菊五郎)と腰元籬(時蔵)が、それぞれ仕える園部左衛門(錦之助)と薄雪姫(梅枝)に恋の取り持ちをする。華やかな気分が満ち満ちた舞台ながら、奉納の刀を盗み取らんとする団九郎(吉右衛門)と続く国崩しの秋月大膳(仁左衛門)の登場から暗雲が立ちこめる。
若々しい吉右衛門が小悪党を徹底して下卑た調子で演じ、仁左衛門に巨悪の大きさがある。筋を追うよりも、歌舞伎の役柄がどのような身体によって成り立っているかを味わうべき一幕である。菊五郎に大勢の水奴がからむ。芯になる役者は最小限の動きで立廻りをさばくが、その典型を楽しめる。
続く二幕目の「詮議」は、大膳の計略に陥って、左衛門(錦之助)と薄雪姫(児太郎)が謀反の大罪の嫌疑がかかる。それぞれの父伊賀之助(幸四郎)と園部兵衛(仁左衛門)は苦渋するが、情にあふれた捌きを葛城民部(菊五郎)がつける。ややこしいのは前の幕で極悪人の秋月を勤めた仁左衛門が苦悩する父親に替わり、奴だった菊五郎が捌き役の上使に替わるところで、歌舞伎を見慣れた観客も戸惑いを隠せない。ただ、慣れてくれば、菊五郎の明瞭にして情味あふれる台詞回しと、幸四郎、仁左衛門の肚をじっくり味わえる。左衛門、薄雪姫の別れに、菊五郎が扇のかげでそっと手を握らせる件りに妙味。この幕の薄雪を勤める児太郎は当惑する姫を可憐に演じている。幸崎奥方の松ヶ枝は、芝雀。歌舞伎座の立女形にふさわしい位取りを出るだけでみせる。
夜の部に移って「広間」から「合腹」へ。左衛門は錦之助で変わらないが、薄雪は三人目の米吉。梅枝、児太郎、米吉、三人の個性と現況を楽しむのが配役の趣向となる。仁左衛門と魁春の夫婦が沈痛な面持ちで、預かった薄雪姫を嫁と思い落ちのびさせようとする。他方、左衛門を預かった幸崎がその首を打ったと首桶を持参し、怒りにかられて梅の方が自害しようとする件りがみどころとなる。魁春が六代目歌右衛門の品位と気迫を受け継いだ出来。父そっくりといわれるのは、歌舞伎役者にとって名誉だろう。
「合腹」では、すでに腹を切っている「陰腹」の肉体的な苦痛と内心の苦悩を、幸四郎と仁左衛門がそれぞれの個性を生かしつつ見せる。さらに仁左衛門にそくされて、妻の梅の方と三人で笑う「三人笑い」となる。リアリズムからは遠い表現が、どこまで観客に届くのかが勝負となる。梅の方、園部兵衛、幸崎の順だが、魁春に女性が子を思う悲痛さがあり、仁左衛門は肉体と精神が一体となる。さらに、幸四郎は自らの奥底を深く探る笑いでありながら、役の大きさをみせた。
大詰となる「正宗内」「風呂場」「仕事場」と進んで行く。この劇の締めくくりは正宗伜団九郎の吉右衛門が背負っていく。それを助けるのが正宗娘のおれん(芝雀)、下男吉介実は国俊(橋之助)五郎兵衛正宗(歌六)。歌六に精神と肉体を鍛え上げた刀匠の風格、職人がゆえの気むずかしさが漂う。吉右衛門はぶれることなくこの芝居をならず者の小悪党で通して、なお役者振りのよさを貫いた。
昼の部の『天保遊侠録』は三度目だが、不器用な生き方しかできぬ男を技巧に頼りすぎず、まっすぐに演じて好感が持てる。私が観た三日の子役が秀逸で、芝居をさらった。芝雀、魁春のふたりが対照的な女形の役を好演。国生がこれまた不器用な庄之助役を全身で演じている。児太郎の柳橋芸者も仇な風情が備わっていた。
夜の部の打ち出しは『夕顔棚』。踊りのよしあしよりも、菊五郎、左團次の洒脱な藝境を楽しむことに尽きる。踊りは巧いばかりがよいのではない。観客の心をいかに遊ばせるかなのだとわかる。また、巳之助、梅枝のふたりが若々しく、しかも狂いなく踊ってなんともすがすがしい。盆踊りへと行く人々を見つめながら、近づいてくる夏を想った。二十五日まで。
『新薄雪物語』は、上演困難な狂言である。歌舞伎の主要な役柄を網羅しているために、大顔合わせでないと成立しない。そのわりにドラマとしての実質が十分とはいえないから、顔合わせの豪華さの割には、観客が劇に感動するのはむずかしい。こうした狂言の限界があるからこそ、今回の上演では昼の部、もしくは夜の部のみで『新薄雪物語』を通し、完結させるのをやめて、昼の部は『天保遊侠録』で幕を開け、夜の部は『夕顔棚』で打ち出したのだろう。労多くして、成果に乏しいのは、だれのせいでもなくこの狂言の性格によるのものだ。とはいえ「虫干し」ではないが、現在の大立者が健在なうちに、規範として上演しておかなければならない。だから歌舞伎興行はむずかしい。
さて『新薄雪物語』の序幕は、満開の桜が咲き誇る新清水が舞台の「花見」。奴妻平(菊五郎)と腰元籬(時蔵)が、それぞれ仕える園部左衛門(錦之助)と薄雪姫(梅枝)に恋の取り持ちをする。華やかな気分が満ち満ちた舞台ながら、奉納の刀を盗み取らんとする団九郎(吉右衛門)と続く国崩しの秋月大膳(仁左衛門)の登場から暗雲が立ちこめる。
若々しい吉右衛門が小悪党を徹底して下卑た調子で演じ、仁左衛門に巨悪の大きさがある。筋を追うよりも、歌舞伎の役柄がどのような身体によって成り立っているかを味わうべき一幕である。菊五郎に大勢の水奴がからむ。芯になる役者は最小限の動きで立廻りをさばくが、その典型を楽しめる。
続く二幕目の「詮議」は、大膳の計略に陥って、左衛門(錦之助)と薄雪姫(児太郎)が謀反の大罪の嫌疑がかかる。それぞれの父伊賀之助(幸四郎)と園部兵衛(仁左衛門)は苦渋するが、情にあふれた捌きを葛城民部(菊五郎)がつける。ややこしいのは前の幕で極悪人の秋月を勤めた仁左衛門が苦悩する父親に替わり、奴だった菊五郎が捌き役の上使に替わるところで、歌舞伎を見慣れた観客も戸惑いを隠せない。ただ、慣れてくれば、菊五郎の明瞭にして情味あふれる台詞回しと、幸四郎、仁左衛門の肚をじっくり味わえる。左衛門、薄雪姫の別れに、菊五郎が扇のかげでそっと手を握らせる件りに妙味。この幕の薄雪を勤める児太郎は当惑する姫を可憐に演じている。幸崎奥方の松ヶ枝は、芝雀。歌舞伎座の立女形にふさわしい位取りを出るだけでみせる。
夜の部に移って「広間」から「合腹」へ。左衛門は錦之助で変わらないが、薄雪は三人目の米吉。梅枝、児太郎、米吉、三人の個性と現況を楽しむのが配役の趣向となる。仁左衛門と魁春の夫婦が沈痛な面持ちで、預かった薄雪姫を嫁と思い落ちのびさせようとする。他方、左衛門を預かった幸崎がその首を打ったと首桶を持参し、怒りにかられて梅の方が自害しようとする件りがみどころとなる。魁春が六代目歌右衛門の品位と気迫を受け継いだ出来。父そっくりといわれるのは、歌舞伎役者にとって名誉だろう。
「合腹」では、すでに腹を切っている「陰腹」の肉体的な苦痛と内心の苦悩を、幸四郎と仁左衛門がそれぞれの個性を生かしつつ見せる。さらに仁左衛門にそくされて、妻の梅の方と三人で笑う「三人笑い」となる。リアリズムからは遠い表現が、どこまで観客に届くのかが勝負となる。梅の方、園部兵衛、幸崎の順だが、魁春に女性が子を思う悲痛さがあり、仁左衛門は肉体と精神が一体となる。さらに、幸四郎は自らの奥底を深く探る笑いでありながら、役の大きさをみせた。
大詰となる「正宗内」「風呂場」「仕事場」と進んで行く。この劇の締めくくりは正宗伜団九郎の吉右衛門が背負っていく。それを助けるのが正宗娘のおれん(芝雀)、下男吉介実は国俊(橋之助)五郎兵衛正宗(歌六)。歌六に精神と肉体を鍛え上げた刀匠の風格、職人がゆえの気むずかしさが漂う。吉右衛門はぶれることなくこの芝居をならず者の小悪党で通して、なお役者振りのよさを貫いた。
昼の部の『天保遊侠録』は三度目だが、不器用な生き方しかできぬ男を技巧に頼りすぎず、まっすぐに演じて好感が持てる。私が観た三日の子役が秀逸で、芝居をさらった。芝雀、魁春のふたりが対照的な女形の役を好演。国生がこれまた不器用な庄之助役を全身で演じている。児太郎の柳橋芸者も仇な風情が備わっていた。
夜の部の打ち出しは『夕顔棚』。踊りのよしあしよりも、菊五郎、左團次の洒脱な藝境を楽しむことに尽きる。踊りは巧いばかりがよいのではない。観客の心をいかに遊ばせるかなのだとわかる。また、巳之助、梅枝のふたりが若々しく、しかも狂いなく踊ってなんともすがすがしい。盆踊りへと行く人々を見つめながら、近づいてくる夏を想った。二十五日まで。
2015年6月4日木曜日
【転送】扇田昭彦さんのお別れの会
芸劇から来たメールを転送いたします。
「扇田昭彦さんを送る会」のお知らせ
2015年6月3日
去る5月22日に急逝された演劇評論家、扇田昭彦さん(元朝日新聞編集委員)を送る会を下記の通り催すことになりましたので、ご案内申し上げます。
日時 2015年7月6日(月)午後6時半開会(6時より受付)
場所 東京芸術劇場プレイハウス(中ホール・2階)
東京都豊島区西池袋1-8-1
会費 5千円
呼びかけ人
巖谷國士、大笹吉雄、小田島雄志、唐十郎、川本三郎、串田和美
桑原茂夫、出口典雄、蜷川幸雄、野田秀樹、福田善之、別役実
◆ご出席いただける方は、お手数をおかけしますが、6月20日までに、
FAX(03-5391-2215)かメール( geki0706@gmail.com )で、お名前、ご所属、お電話番号をお知らせ下さい。
◆皆様からお供えいただくお花で、会場を飾りたいと考えております。
供花いただける方は、金子総本店(電話03-3469-2894)へ、お申し込み下さい(1口=1万5千円)。お名前を記し、会場に掲示させていただきます。ご協力賜れれば、ありがたく存じます。
◆当日は午後4時から5時半まで、会場内にどなたでも献花していただける場所を設けます。この時間帯においでいただく場合は、事前のご連絡と会費は不要です。
◆どうぞ平服でお越し下さい。御香典などはご辞退申し上げます。
◆当日は劇場休館日のため、午後4時に開扉いたします。それより前には、お入りいただけません。どうぞご了承ください。
実行委員 代表 桑原茂夫
「扇田昭彦さんを送る会」のお知らせ
2015年6月3日
去る5月22日に急逝された演劇評論家、扇田昭彦さん(元朝日新聞編集委員)を送る会を下記の通り催すことになりましたので、ご案内申し上げます。
日時 2015年7月6日(月)午後6時半開会(6時より受付)
場所 東京芸術劇場プレイハウス(中ホール・2階)
東京都豊島区西池袋1-8-1
会費 5千円
呼びかけ人
巖谷國士、大笹吉雄、小田島雄志、唐十郎、川本三郎、串田和美
桑原茂夫、出口典雄、蜷川幸雄、野田秀樹、福田善之、別役実
◆ご出席いただける方は、お手数をおかけしますが、6月20日までに、
FAX(03-5391-2215)かメール( geki0706@gmail.com )で、お名前、ご所属、お電話番号をお知らせ下さい。
◆皆様からお供えいただくお花で、会場を飾りたいと考えております。
供花いただける方は、金子総本店(電話03-3469-2894)へ、お申し込み下さい(1口=1万5千円)。お名前を記し、会場に掲示させていただきます。ご協力賜れれば、ありがたく存じます。
◆当日は午後4時から5時半まで、会場内にどなたでも献花していただける場所を設けます。この時間帯においでいただく場合は、事前のご連絡と会費は不要です。
◆どうぞ平服でお越し下さい。御香典などはご辞退申し上げます。
◆当日は劇場休館日のため、午後4時に開扉いたします。それより前には、お入りいただけません。どうぞご了承ください。
実行委員 代表 桑原茂夫