2020年12月14日月曜日

【劇評168】愛之助、壱太郎の『連獅子』。勘九郎と巳之助の『棒しばり』。二本の舞踊ものがたり。 5

 小津安二郎の映画だったろうか、それとも三島由紀夫の小説だったろうか。  歌舞伎座が下お見合いの場となる描写があったように思う。欧州のオペラ座も同様だろうけれど、国を代表する豪奢な劇場は、単に観劇の場ではなく社交の場であった。  また、消閑という役割もあって、私の父の世代は、あまり気に染まない幕は抜いて、食道でビールをゆっくり飲んでいた。  当時は、なんと不真面目なと思っていたが、今は、そんなのんびりした情景が懐かしく思い出される。  二月の千穐楽から、八月の初日まで。長らく閉場していた歌舞伎座がようやく開いた。  新型コロナウィルスが猛威を振るうなか、万全の体制をしいて、ともかく感染者がでないように考え抜かれている。  小劇場ではないから、舞台と観客席には充分な距離がある。  劇場側としては、観客と観客、役者と役者、役者と地方のあいだに安全な距離をとるために腐心したのがよくわかった。  四部制の幕間は、時間をとって徹底した消毒にあてられている。土産物屋や喫茶も、観客席から直接は行けない。ロビーや客席内での談笑も控えるように求められる。人交わりを最低限にするのが、観客の安全を守り、興行を継続させるための唯一の方法となっている。  狂言一本にこの観劇料は高いとの声も聞く。  私に製作費の積算はできないが、どう考えても採算が割れているのではないか。それでも、歌舞伎座は開ければならない使命感が劇場スタッフを支えていると思った。その思いに深く感謝する。    さて、この稿では、第一部『連獅子』と第二部『棒しばり』について書く。  第一部は、愛之助の親獅子、壱太郎の仔獅子による『連獅子』。実の親子によって踊られると曲の内容と歌舞伎の伝承が重なって、感動を呼ぶ演目とされている。  けれど、先輩と後輩が純粋に舞踊として踊るのは、存外、作品としての正体が見えてくる。情にからまないだけに、歌舞伎舞踊は技巧だけではなく、イメージの交換であるとわかる。千尋の谷を舞台にしたファンタジーを見ようとする意志が、役者と観客に共有されなければならないのだった。  愛之助には華のある役者の自信がある。壱太郎には、上をめざしていく壮大な野心がある。この対比を面白く見た。  宗論は、橋之助と歌之助。ベテランが務めるときの遊びはないが、まじめな問答がおかしみを誘った。  さて、第二部は『棒しばり』。『連獅子』が親子ものがたりが底流にあるとすれば、勘三郎、三津五郎以来、『棒しばり』には、舞踊の名手をめざすふたりのライバルものがたりが曲に宿っている。  古くは六代目菊五郎と七代目三津五郎。近年では十八代目勘三郎と十代目三津五郎。このふたりの『棒しばり』を折に触れて見てきたが、そのときどきのふたりの関係性も見えてきた。  もちろん酒好きの浅ましさ、滑稽さを描いた舞踊劇としてもすぐれている。だれが踊っても、手はくるだろうが、その先がむずかしいと十八代目も十代目もよく知っていた。  今回はふたりの長男同士が踊る。勘九郎と巳之助は、少し歳の差はある。けれども、十八代目中村勘三郎写しの愛嬌を漂わせる勘九郎に、懸命にくらいついていく巳之助に好感を持った。特にツレて舞う件りが心地よかった。酔いが自然に回っていく様子がよくわかった。  巳之助は二十代のはじめ、どこか翳りが残っていた。また、その翳りが新作歌舞伎によく似合っていたが、父を亡くしてから、ひとりの役者として、ひとりの舞踊家として立っていく覚悟が強く感じられるようになった。   今回の太郎冠者はその集大成であった。  劇場を取り巻く環境が厳戒態勢にもかかわらず、観客に忘我の心持ちに遊んで貰いたいと願っている。  もっとも、三津五郎が健在であれば、彼らが、先輩たちから忠告されたように「そんなバタバタやるんじゃないんだよ」と笑って、巳之助にカスをかすをくらわすのだろうと思う。「親が早世してしまったというのは、こうした厳しい忠言が聞けなくなるということなのだな」そう思うと踊りを観ながら、しんみりしている私がいた。(続く)