2019年9月22日日曜日

【劇評148】仁左衛門と幸四郎の弁慶。

歌舞伎劇評 令和元年九月 歌舞伎座夜の部

秀山祭の夜の部、『寺子屋』『勧進帳』『松浦の太鼓』と重量級の演目がならび、歌舞伎のお手本のような番組となった。

まずは、吉右衛門が松王丸を勤める『寺子屋』。出のところで、患っているために咳をするが、こうした「偽り」を紛れもない真実として描き出すのが、時代物の名手の技巧であろう。
首実検を前にして、戸口で玄蕃と行う「寺子改め」の苛立ち。戸浪(児太郎)を相手の机の数をめぐるやりとりから「無礼者め」と見得になるときの形のよさ、源蔵(幸四郎)が沈痛な面持ちで運んできた首を見下ろすときの肚。申し分のない当代一の松王丸を見せる。

今回、すぐれていたのは、我が子児太郎が身代わりを受け入れた様子を聞き、弟桜丸の自害と重ねて嘆く件りである。菊之助の千代は、万事控えめに運ぶ。自らのくどきで観客を泣かせるのはたやすいが、『寺子屋』はあくまで松王の芝居と心得て、武家の女房ぶりがすぐれていた。白装束となってからは、一対の絵画に見える。心と形がよく整っているからである。

幸四郎と児太郎による忠義に身を割かれる夫婦の様子も規矩正しく、近年になく、一級品の『寺子屋』となった。福助が不自由な身体を押して御台所を勤める。
丑之助は自ら菅秀才を望んだと筋書きにある。決して悪達者にならず、品位を保って淡々と勤める。音羽屋の後継者としてのたしなみであろう。
涎くりは鷹之資で、花道付け際の爺とのやりとりも丁寧で好感が持てる。チャリも写実がものをいう。将来が期待される。

そして、又五郎の春藤玄蕃がいい。赤面ながら、肚のある侍の風格さえ漂わせる。退出したいと願う松王への捨て台詞も効いていた。


さて、夜の部の話題は、仁左衛門と幸四郎が奇数日、偶数日で弁慶を替わる『勧進帳』。要の富樫は、仁左衛門の弁慶には幸四郎、幸四郎の弁慶には錦之助。義経は両日ともに、孝太郎の配役である。

初日近くに、仁左衛門の弁慶、幸四郎の富樫、孝太郎の義経を観たが、通る、通さぬを主題とするこの芝居の骨格を違えぬ芝居であった。もとより仁左衛門は、柄からいっても弁慶役者とはいえまい。けれども、力感で押していく弁慶ではなく、知力でも富樫と拮抗する弁慶のおもしろさがある。もちろん、弁慶と富樫は気力、体力を尽くして拮抗するのだが、最期は知力であり、人間としての器量を競い、この難所を切り抜けようとしている。その切迫した思いがよく伝わってくる『勧進帳』であった。

特筆すべきは、孝太郎の義経である。女方が中心の役者が勤めるとどこかたよやかな美しさが前に出るが、孝太郎は「弓馬の家」に生まれた人間の悲哀が全身にみなぎっている。〽判官御手を」のくだりも、さらっとして小気味がいい。判官は、孝太郎の持ち役になると思った。

さて、所用が立て込んで、幸四郎弁慶、錦之助富樫を観たのは中日を過ぎてからになってしまった。幸四郎の富樫の練達ぶりと比べると、弁慶に回るとひりつくような緊張感があり、かえって初々しい。演ずる弁慶ではなく、極限状況にいる弁慶である。錦之助は決して器用な役者ではない。このあたりもまた、初々しさと通じている。二者ともに、この関で、初めて出会って、命懸けのやりとりをしている。中日を超えているにもかかわらず、その雰囲気を保っていた。孝太郎は相手役は変わっても、自らの世界を構築し、磁場を作っていた。

三世歌六百回忌追善として歌六の松浦公で『松浦の太鼓』が出た。大名ではあるが、風流の道に通じている。好色かと思えば、かえってお縫(米吉)を遠ざけるたしなみがある。すぐに其角(東蔵)をも叱る癇性な面を持ちながら、源吾(又五郎)の快挙がわかると、助太刀に出ようと馬を引かせる腰の軽さもある。両極端な性格を併せ持った役である。

歌六は、まず、大名の風格を骨太に通して、愛嬌や酔狂に流れないやり方をとった。観客に迎合して受けを狙うのではなく、あくまで討ち入りの日を描いた「忠臣蔵外伝」としての戯曲を重んじている。

この芝居の見物は、東蔵の其角であろう。筋書に初役とあって驚いたが、市井に生きながらも、武家との交際も怠らず、松浦公に一歩引いてはいるが、かといって媚びやへつらいにうつつを抜かすことのない俳人のありようが伝わってくる。江戸の句会の様子を一身に体現する。このような芝居のありようは、未来に向けて、やがて失われていくと思われるので、今、観ておきたいと深く感じさせた。
二十五日まで。

2019年9月20日金曜日

【劇評147】吉右衛門、雀右衛門、歌六が拮抗する『沼津』

歌舞伎劇評 令和元年九月 歌舞伎座昼の部

一年のうちで、もっも本格の歌舞伎が味わえる興行として、九月の秀山祭はすっかり定着した。もとより歌舞伎は変幻自在な相貌を持つから、コミックやアニメが原作の狂言があってもいい。もちろん、よいとは思うのだが、一方で、歌舞伎を代表する座頭が君臨する伝統的な歌舞伎も着実に続いていかなければと思う。

今月の『秀山祭九月大歌舞伎』は、吉右衛門を座頭に、仁左衛門、梅玉、魁春、東蔵と厚みのある座組で、興味深い演目が続く。

昼の部はまず『極付 幡随長兵衛』から。『公平法問諍』を観るのは、メタシアターを観るような心地がする。役者が素を演じると、その地力がよくわかる。頼義に児太郎、上人に橘三郎、坂田公平に種之助。いずれも次代をになう人材で、おもしろく勤める。世代交代を実感する。

さて、村山座舞台も中盤になってから、舞台番の新吉(吉之丞)が粋で、わざと野暮につくった坂田金左衛門(錦吾)との対照が舞台を盛り上げる。この一対を引き継ぐように、幸四郎の長兵衛、松緑の水野が登場する。そのため、幸四郎は屈託なく長兵衛を造形し、反対に松緑は、悪の凄みを漂わせる。

今回の上演の骨子には、水野と近藤登之助(坂東亀蔵)を容赦なく悪と捉えるところにある。すっきりとした、よい役者がやるから二枚目なのではない。台本に忠実に考えると、水野と近藤は、あからさまな奸計で、長兵衛を惨殺する権力者である。この大筋をはずさない構成で、白柄組と侠客の対立を、粋な江戸の風俗ではなく、人間の本質にかかわるドラマとしたのである。

この観点を貫こうとすると、二幕目、長兵衛内がむずかしい。雀右衛門のお時は情にあふれてすばらしい。歌昇の出尻も飄々とした味を出している。錦之助の唐犬もさっぱりと作っている。子役がつとめる息子が、長兵衛を引き止める件りももちろん泣かせる。しかし、全体に大きなドラマをしつらえると、この幕が人情味あふるる場として、次の水野邸へと結ぶ段取りのように見えてくる。このあたりが、芝居の不思議であろう。

三幕目に入ってからは、幸四郎の見せ場である。死を覚悟し、早桶を用意した男の意気地があふれる。ここには令和の御代には失われた「恥」の概念があり、長兵衛と水野を隔てているのは、この「恥」なのだとよくわかる。
続くお祭りは、鳶頭一人ではなく、芸者をふたり出して華やかに。梅玉が芯の梅吉、そして、藝者を梅枝と魁春が勤める。ふたりの世代差というよりは、藝質の差を愉しむ所作事となった。

そして吉右衛門の『沼津』である。

この役者は時代物の大役で現在、歌舞伎界の先頭に立つ。ところが、『沼津』の十兵衛で見せる愛嬌とその底に潜む屈託を描出して余すところがない。この演目は、三世歌六の百年忌とある。まさしく十兵衛と拮抗する平作の滋味が歌六によってよく出た。後半からの平作は、なんとかお米(雀右衛門)のために、敵の居所をつきとめたい執念が買ってくる。人のいいおやじと見えたところが、腹を切ってまで大事を成就したい人間へと変わるところに眼目があり、今回の歌六は、平作の真髄に届いている。

芝居の中心はなんといっても寝静まり、お米が十兵衛の印籠を盗み出そうとして発覚するところにある。
もちろん、金銭ずくではない。手傷を負った夫を直したいがため、印籠の薬がほしいという一心である。

それに対して十兵衛は、久作は実父、お米が妹とわかってからが上手い。商人として成功したのだから、すべては金で事態を救おうとする。
けれども、久作やお米は、金よりも敵の行方が知りたい。この双方の思いの齟齬、その食い違いは、やるせなさい。だからこそ芝居となる。

平作住居から、千本松原の長丁場が持つのは、吉右衛門、雀右衛門、歌六の地力あってのことである。
又五郎が荷物持ちの安兵衛を愛想良くつとめて、観客をほほえませる。歌昇の長男、小川綜真が初目見得。二十五日まで。

2019年9月2日月曜日

【劇評146】尾上右近の弁天小僧。華々しい進境

歌舞伎劇評 令和元年九月 国立劇場小劇場

尾上右近がはじめた「研の会」も、早くも五回目。自主公演といえば勉強会との位置付けが一般的だろうが、今回は本公演への進出をはっきり意識した座組、狂言立てで際立っている。
まずは音羽屋の歴史を踏まえ、もっとも世に知られた『弁天娘女男白浪』の浜松屋と稲瀬川を出す。右近は、どちらかといえば女方を中心とした役を勤めてきたが、この弁天小僧菊之助が、実は男であったと見破られる「見顕し」では、男の匂いが強く出た。
女方が男に急に変貌する倒錯的なおもしろさではない。武家の娘の衣装に身を押さえつけていた若い男の色気がまっすぐに出て、おもしろく見た。
この方向性は、尾上右近の将来を占う上で大きな意味を持つ。確かに国崩しのような立役は柄からいっても遠いだろうが、鍛え抜かれた踊りの身体を生かして、清新な立役としての道を選んでいくのだろうか。今夜、観た限りでは、「毛谷村」の六助や「実盛物語」の実盛あたりも射程に入ってくる。
今回は菊五郎の指導だが、必ずしも音羽屋の藝にこだわることはない。弁天小僧は勿論、右近の生涯の目標となるだろう。ただ、白塗りの二枚目の立役まで、自在に視野を広げていく方が可能性が生まれてくる。
今回、安定した舞台となったのは、もちろんつきあってくれた先輩達の力によるものが大きい。相手役南郷力丸の彦三郎(初役とは驚きだ)、浜松屋では團蔵の日本駄右衛門、橘太郎の番頭、市蔵の浜松屋幸兵衛を得たために、舞台全体に破綻がなく、弁天小僧をたっぷりと演じることが出来た。
欲をいえば、悪の匂いだろうと思う。黙阿弥の白浪物は、なにより江戸の小悪党であることが大事だが、右近は藝質もあって、悪に徹することができにくい。世間をなめているアウトローの感触が浮き立てば、より蠱惑的な弁天小僧となるだろう。
休憩のあとは文楽座が出演した『酔奴』。初代猿翁の演目だが、当代猿之助がまだ手がけていない踊りを上演できたのも、右近の人徳と恵まれた環境ゆえだろう。アドバンテージを生かして、藝を先んじれば、必ず道が開ける。
そう確信させたのは、なにより踊りの確かさである。子役として天禀をうたわれた岡村研祐には、それだけに、どうしても器用さがつきまとってきた。名子役につきまとう評価である。もちろん、器用が悪いわけではない。ただ、上手いというのは、必ずしも人を感動させない。このあたりが右近につきまとう課題としてあったのも事実だろう。
けれども、今回の『酔奴』は、一見、派手に見える竹馬の件りが、突出しない。この踊りの芝居ばかりがよく見えてくる。
仕方噺の件りも、物語が筋を追うことに終始せず、「噺」であること「語り」であることの芯がしっかりとしていた。
前半が丹念に作り込んでいたばかりではない。一曲、全体に技藝が充実し、踊ることの喜び、語ることの幸福が伝わってきた。三人上戸も、泣き、怒り、笑いがくっきりしている。顔の表情で、違いを際立たせるのではなく、まさしく身体が泣き、怒り、笑って芝居をしている。
また、じれる女房の風情がまたいい。ここでは女方の修業が生きている。

弁天小僧とめずらしい踊りの二題。右近の着実な進境を感じさせた。
京都、東京を巡演。私は大千穐楽を見た。