2018年12月16日日曜日

【劇評127】『スカイライト』小川絵梨子の緻密な演出

現代演劇劇評 平成三十年十二月 新国立劇場小劇場

私は職業として観劇をはじめてもう四半世紀以上が過ぎた。言葉は悪いがすれっからしの観客であるのはやむを得ないと思っている。それでも三年に一度くらいは、劇場で泣く。烈しく心を動かされたからである。
演出家小川絵梨子が新国立劇場の芸術監督に就任して初演出作品にあたる『スカイライト』(デヴィッド・ヘア作 浦辺千鶴訳)を観た。不倫の果てに分かれたふたりが、再開してお互いの価値観と人生の方向性について、火を吹くような議論を徹底して行う。言葉を決闘の道具として認識する西欧の戯曲を、いかに私たちのものとして認識させるかが課題となる。
かつて、レストラン経営者の夫婦に偶然出会って、店の責任者に起用されたキラ(蒼井優)は、今はロンドンのはずれで教師をしている。三年ぶりに夫婦の息子エドワード(葉山奨之)が訊ねてきて、刺激的な会話が始まるのだが、このふたりの関係は伏せられている。観客は、このふたりは姉弟なのか幼なじみなのか、わからないままに会話の行方を追っている。エドワードが帰って、さらにトム(浅野雅弘)がやってくる。次第にキラとこのふたりのこじれた関係があきらかになっていく。
その意味でこの戯曲は、人間の関係をめぐる探偵の役割を観客は負わされている。そのなかで、あらわになるのは、男女のあいだに横たわる支配欲や罪の意識や育ちによる価値観の相違である。作者のデヴィッド・エアは、人と人とは決して分かり合えることはないとシニカルな信念を持っているように思える。小川演出の特質は、それにもかかわらず、人と人は分かり合えるはずだと信じなければ生きていけないのだと舞台を通じて語っているように思われる。この美質をよく感じたのは、男が間違った意見を勢いで言ってしまったときに後悔、女はその発言を聞いて傷つくとともに、形勢が逆転するぞ、しめしめと感じるときの表情や所作を緻密に演出しているところだった。二村周作の美術は、荒涼とした二人の心の風景をよく写している。大団円はここではは、書かないが、ナプキンと焼きたてのトーストの香りがよみがえってくるとともに私は泣いた。二十四日まで。二十七日は兵庫県立芸術文化センター阪急 中ホール。

【劇評126】堤真一、段田安則、いずれが正しいのか。イプセン『民衆の敵』

現代演劇劇評 平成三十年十一月 Bunkamura

イプセンの劇作は、没後110年を超えても現在性を持つ。
その理由は、いくつか考えられる。ひとつは社会的な正義と現実的な妥協を、どちらの立場を正しいと断ずるのではなく、その双方にある欺瞞と偽善を暴き出しているところにある。さらに、この対立を『民衆の敵』では、性格の違う兄弟、『人形の家』では夫婦のような家族のなかでの対立としているところにある。公的な社会問題が、私的な家族関係に亀裂をもたらすときの不安と焦燥が見事に描かれているからだと思う。
今回、ジョナサン・マンヴィ演出によって演出された『民衆の敵』(廣田敦郎訳)は、兄の市長ペテルに段田安則、弟の医師トマスに堤真一を配して、対照的な人間の生き方を照らし出している。私たちはそこに、辺野古の埋め立てのような現在的な問題について解決のヒントがないかを探す。また、同じ血を受け継ぎながらも、その育ち方、職業の選択によって、まったく異なる価値観を持つようになった兄弟の不思議を思う。
マンヴィの演出は、現実に「民衆」を集団として動かし(黒田育代振付)、こうした民衆の無意識によって生まれる圧力が、いかに市長や医師のような公的な立場を持つ人間の決断を左右するかを突きつけられる。圧力に屈するというネガティブな側面だけではない。この圧力に反発して、逆に信念を貫き通す強さを与える結果をも描く。トマス医師とその家族、カトリーネ夫人(安蘭けい)、娘で教師のペトラ(大西礼芳)は、「民衆」からつまはじきになり、家に投石されようとも、この地に留まることを決意するのだ。
家族の側に立って、集会の場所を提供して力になる船長を木場勝己が好演。ポール・ウィルスの美術は、劇場全体にパイプをめぐらし、この劇が市の全体にめぐらされたパイプの問題であること。そして、中を見通せないパイプのなかには、恐ろしい腐敗があると告げていた。二十三日まで。また、二十七日から三十日まで大阪、森ノ宮ピロティホール。

2018年12月10日月曜日

【劇評125】「阿古屋の琴責め」を玉三郎、梅枝、児太郎の三人が勤めるのが話題

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 歌舞伎座夜の部 
歌舞伎座夜の部は、「阿古屋の琴責め」を玉三郎、梅枝、児太郎の三人が勤めるのが話題。昼の部の「お染の七役」でも玉三郎は監修にあたり、壱太郎を指導している。玉三郎の当り役を、直接下の世代にではなく、歳が隔たる世代へと移していく。三之助の東横劇場の時代、孝玉の演舞場時代、浅草歌舞伎の時代を思い出すが、今はこうした若手花形が歌舞伎座で機会を与えられる世の中となった。
今の時点で、玉三郎、梅枝を観た。
琴、三味線、胡弓の三弦によって、景清をかくまっているかいなか。心境を読み取らせるには、楽器が手に入っていなければ成就するわけもない。当然のことながら玉三郎は圧倒的な技倆で、澄み渡った心境を示す。当代の第一人者の風格である。 彦三郎の重忠は、捌き役としての力量が備わってきた。「対決」の細川勝元を演じる日も近いだろう。玉三郎が阿古屋を勤める日の岩永は松緑。仁にあった役だけに憎々しく、しかも重みがある。
梅枝の阿古屋は初役とは思えぬだけの力がある。台詞、所作ともに確かな技芸を育ててきたが、この大役で急に開花した。楽器の手に誤りがまじるのは、いたしかたない。けれど、それを上回るだけの心境の充実があり、次第に景清への思いが深まっていくのがわかる。白眉は遠い日の思い出を語る三味線のくだり。また、傾城である身をなげく気持ちも伝わってきた。
玉三郎の岩永は、文楽の人形をよく研究している。瞼に目をかく、眉の動き、黄色い足袋の両足が浮く。人形振りに留まらず、人形写しというべきだが、これほどの美貌の持ち主がやらねばならぬのかとの思いはある。みずから教えた梅枝、児太郎の後見を勤める心もあったのだろう。
続く『あんまと泥棒』は、中車、松緑ともに絶好調。前半は中車のあんまがひとりで芝居を運んでいく。夜の闇、ついていない夜更け、あんまの孤独、いずれも写実であるかと思えば、極端な誇張もある。後半、あんまが泥棒を酒の力を借りて追い詰めていく過程を面白く見せる。中車に突っ込んでいく勢いがある。松緑は受けの芝居にすぐれて、はじめは時の経つのをあせり、苛立っているが、次第にあんまの境遇に心を寄せていく切り替えがうまい。世話物のある部分は、おのふたりが担っていくと思わせた。
キリは新作舞踊の『傾城雪吉原』。表情と優雅な手の動きで綴っていく。もちろん、舞踊家の名人が晩年に踊る『雪』とは異なる。ゆるやかな動きが観客を魅了するが、どこか美しい静止画の連なりを観ているような心地がした。二十六日まで。

【劇評124】時代と世話を自在に操る技藝が、吉右衛門から菊之助に舞台の上で伝授されている

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 国立劇場

大立者がずらりと揃う大顔合わせには醍醐味がある。また、若手花形による清新な座組が歌舞伎界を変えていくこともある。前者には、歌舞伎座のさよなら公演があり、後者には勘三郎(当時・勘九郞)と三津五郎による八月納涼歌舞伎の出発が近年の例となる。
もとより、大立者から若手まで、すべての世代が揃った一座がもっとも安定した芝居を作ることが出来るのはいうまでもない。まして、手慣れた古典ではなく、復活狂言や新作では、充実した座組が望ましい。
今月の国立劇場は、『通し狂言 増補双級巴 ー石川五右衛門ー』(三世瀬川如皐作 国立劇場文芸研究室補綴)。「壬生村」と「木屋町二階」の復活が焦点にある。
詳細は追ってみていくとして、「山門」を趣向で町屋に移した「木屋町二階」の幕切れ、吉右衛門の五右衛門、菊之助の久吉の絵面。そして、大詰「明神捕物の場」の幕切れ、吉右衛門、菊之助に、歌昇の早野弥藤次を加えた三者の幕切れがすぐれていた、それぞれの芸容の対比、型の揺るぎなさ、分をわきまえた居所があいまって、歌舞伎の美を伝えていたのだった。特に大詰は、その前に「隠家の場」で、吉右衛門と、五右衛門女房おたきの濃厚な芝居がある。おたきの継子いじめは、五右衛門の息子五郎市を盗賊としたくなかったがためとのモドリがある。このしっかりとした芝居があってこそ、立廻りと引っ張りの見得が生きる。これも、芸力のある充実した座組あっての大詰だった。
発端に戻る。今回の「芥川の場」は、五右衛門が大悪党となった因果を示すために書き加えられたのだが、いまひとつ説得力に乏しい。京妙の奥女中しがらみから、金を奪ったのはわかるのだが、子を孕んでいるのが言葉で示されるだけでは、因果の深さ、怖ろしさを観客に伝えるのはむずかしい。
続く、「壬生村」は、米吉の小冬、身売りを軸に描く一幕。いがみの権太ではないが、吉右衛門の五右衛門は、家族に対する親愛がまずある。けれど、大きな野望に取り憑かれた人間の狂気もある。この相反するかに見える肚は、現実世界では実はありがちなことではなかったか。悪徳経営者が実は家族思いなどというのは、通例であろう。吉右衛門は、この分列を単なるお芝居ではなく、人間の業として描くだけの力量がそなわっている。歌六は、五右衛門と小冬の父次左右衛門。先の場で女中しがらみの腹から取り出した子が、実は五右衛門だったとわかる。歌六は篤実な芝居に徹している。
二幕目第一場「松原の場」、桂三の中納言氏定が、追いはぎにあって、しかも威儀を正して花道を行列していくのは、すでに桂三の手に入った芝居。続く「行列の場」では、籠にのった菊之助の久吉が初めて登場する。単なる白塗りの二枚目ではなく、天下を望む野心家としての肚を見せる。ここで、五右衛門と久吉は同根であり、恵まれぬ生まれから天下人に成り上がろうと懸命にあがいている二人の相克がこの芝居の核心にあると分かる。
三幕目「奥御殿の場」は、雀右衛門の傾城芙蓉、錦之助の足利義輝、又五郎の三好長慶、御台綾の台と実力者が揃った。そのために、荒唐無稽な趣向の場が、おもしろい遊びとして成立している。後半、五右衛門と久吉の言葉の達引きが充実している。時代と世話を自在に操る技藝が、吉右衛門の導きによって、舞台の上で伝授されているのがよくわかる。十代、二十代を音羽屋の二枚目、若女方として成長した菊之助が、今後、時代物の立役を勤めていくにあたって新境地を開こうとしている。
宙乗りによる葛籠抜けもあり、こうした芝居の充実があるから、十二月の公演としては、かつてない水準を示している。歌舞伎本来のおもしろさを噛みしめることの出来る舞台となった。二十六日まで。

2018年12月7日金曜日

【劇評123】松也の心の闇。壱太郎が芯の悪婆は玉三郎写し

歌舞伎劇評 平成三十年十二月 歌舞伎座

年の瀬の歌舞伎座は、玉三郎を座頭とする一座、若手花形を大胆に抜擢した番組で評判となった。
昼の部はまず『幸助餅』(今井豊茂補綴。演出)から。松竹新喜劇ではなじみのある演目で、私も子供時代に藤山寛美で観た思い出がある。平成十七年一月で鴈治郎(当時翫雀)によって大阪松竹座で歌舞伎として上演された折りは、見逃している。
芯となる大黒屋幸助を松也、敵役となる関取雷五良吉を中車が演じる。人のよい大阪商人の幸助は、相撲の贔屓で雷五良吉に身代を傾けるほど入れあげる。雷が江戸へ転じたのち、幸助は大店を夜逃げ同然で追われ裏店にくすぶっているが、大関になったとお礼に現れた雷に、再起のために妹を廓に売った金まで入れあげようとする。幸助の妻おきみ(笑三郎)幸助伯父五左右衛門(片岡亀蔵)は、雷にいったん渡した金を返してくれと求めるが、雷は応じない。この恨みに奮起した幸助は、幸助餅の店を開いて大繁盛となる。
どんでんがえしのある典型的な人情噺だが、松也が演じると単なる人のよい男ではなく、パトロンとなり金を分不相応につぎ込んでしまう人間の業が浮かび上がってくる。ある種の心の闇がほのみえるのが手柄。これは大阪で作られた台本に本来ひそんでいるものだが、松助と演出がうまく引き出している。
中車は世話物を演じて、写実に徹するかに思えるが、実は時代に張る部分もあって融通無碍な芸に達しつつある。前半、まったく肚を割らないのもすぐれている。廓の三ツ扇屋の女将に萬次郎。さすがに虚飾と実のあわいにある稼業の女将の雰囲気を出す。芸者秀ゆうは笑也。出番は少ないが仇な色気が出た。幸助妹は児太郎。可憐な魅力がある。
続いて、玉三郎監修の『お染の七役』。序幕からお染、久松、竹川、お光、小糸とめまぐるしく早替りを見せる。早替りは極端な役柄の打ち出しが必要だが、壱太郎の懸命な勤め方が胸を打つ。芝居としては、壱太郎が土手のお六となってからの小梅莨屋から油屋見世先の強請場が見どころ。松緑の喜兵衛という役にうってつけの先輩が、がっしりと壱太郎の悪婆ぶりを引き受けている。油屋に入ってからは中車の久作、彦三郎の清兵衛、権十郎の油屋太郎七と世話物の役者も揃って、松緑、壱太郎が自在な芝居を見せる。それにしても、玉三郎の指導に忠実に、忠実にと教えを墨守しているのだろう。まずは、ここから。のちに二度目、三度目を勤めるとき、独自の色を出してくるのが楽しみな出来であった。歌舞伎座の幕切れ「まずはこれぎり」を二十代の壱太郎がひとりでいったのは、何と言ってもその身の誉れ。一生の思い出になるに違いない。二十六日まで。