歌舞伎劇評 平成三〇年十一月 歌舞伎座
吉例顔見世大歌舞伎。
夜の部はまずは『楼門五三桐』を、吉右衛門の五右衛門、菊五郎の久吉の顔合わせでみせる。結構なのはいうまでもない。吉右衛門は台詞回しの技術を、技巧と感じさせない。大道具の豪華さ、鷹の加える血染めの片袖が重要な意味を持つこの狂言のおおらさがある。菊五郎は立っているだけで知将の趣きがあり、何も足さないことの大切さを教えてくれる。この顔合わせを新鮮に見せるのが、歌昇の右忠太、種之助の左忠太。若手花形のなかでも、吉右衛門の指導を受けて、技藝に熱心なのがこの役でもわかる。
続いて、雀右衛門がお京を勤める『文売り』。島原の遊女の心情を訴える件にすぐれる。また、「シャベリ」も単なる踊りに終わらぬ趣向があり、『嫗山姥』を清元に置き換える愉しみにあふれている。『白石噺』の宮城野を雀右衛門で観たくなった。
続いて『法界坊』(石川耕士補綴)を猿之助が通す。言わずと知れた十八代目勘三郎の当り狂言で、命日も近く、追善興行も続いているので、どうしても故人の俤を意識した。実際、猿之助の法界坊を観ると、勘三郎とはまた、違った面白さがあって、夜の部の大半を費やすだけの価値がある。石川の補綴は、その意味でも周到である。猿之助は生臭坊主のあくどさよりは、軽妙なおかしさをかもしだす。そのため、この芝居が同じ筋を別の役者で繰り返す「鸚鵡」で成り立っていると強調する。猿之助だけではなく、鸚鵡を演じる役者たちも立っている。
團蔵の源右衛門に重みがある。巳之助の奴五百平、種之助の野分姫と、弘太郎の長九郎と若手を起用しているのも近年の傾向で、彼等が懸命に舞台を生きているのがうれしくなる。
尾上右近のおくみは、女方の華やかさと芝居の確かさがあって出色の出来。猿之助が「歌舞伎座で一番いい男だとおもっている」とからかう楽屋落ちが、あながち冗談では内のが隼人の要助。長身でありながら、悪目立ちすることなく、柔らかみが出ている。
なんといっても、『法界坊』を支えるのは道具や甚三の歌六。これも猿之助が「いい型だね」と嘆息するが、立っている姿が歌舞伎になっているのは、大立者の証拠。歌舞伎役者の身体はこうあらねばならぬと指し示していた。
大喜利となってから、猿之助は法界坊の霊と野分姫の霊を勤めるが、女方の様子がいい。渡し守おしづは雀右衛門で、右近のおくみと猿之助のあいだを捌く貫禄に満ちている。二十六日まで。