2018年5月26日土曜日

【劇評109】コクーン歌舞伎、七之助の与三郎。

 歌舞伎劇評 平成三十年五月 シアターコクーン

一九九四年に始まったコクーン歌舞伎もついに第十六弾。今回は木ノ下裕一の補綴を得た『切られの与三』(串田和美演出 美術)が上演された。
瀬川如皐の世に知られた『与話情浮名横櫛』を原作としているが、『切られの与三』としたのには理由がある。半通しで上演されるときも、普通取り上げられない「玄治店」以降を丁寧に描いて、全身を傷つけられた与三郎を大団円で救うのではなく、その後も、辛酸をなめる人生を描きつくす。歌舞伎でよく知られた台本をミドリで出る場だけではなく全幕を俯瞰し、再構成した新たな戯曲である。これを七之助、梅枝、萬太郎、亀蔵、扇雀を中心とした歌舞伎役者に、コクーン歌舞伎ではおなじみとなった笹野高史、真那胡敬二らで上演する試みであった。
「見染め」「赤間別荘」「玄治店」は、あえて古典によりかからず、さっと走り抜ける。すでにある型によりかかりすぎては、この『切られの与三』の趣旨から遠ざかってしまう。歌舞伎好きには、与三郎の七之助、お富の梅枝がどのようなやりとりを見せるかが気になるところだが、このあたりは早々にはしょっている。私としては、納得できるやり方だ。
そのかわりにふたつの見どころが提示される。ひとつは与三郎(七之助)を育てた和泉屋の人間関係である。兄を気遣う与五郎(萬太郎)と許嫁おつる(鶴松)の存在。そしてのちにクローズアップされる和泉屋の奉公人で与三郎をいとおしむ下男の忠助(笹野高史)である。
もう、ひとつは、扇雀が勤める久次である。囚人として島送りになった与三郎とともに脱獄したかと思えば、ひとり良い目をみて、江戸に先に帰り、お富と夫婦になっている。ふたりの宅へ訪ねてきた与三郎を親切ごかしにもてなしつつも、町方に売ろうと企む。これも歌舞伎の定式だが、さらに、「モドリ」(原作では七幕目の長台詞、岩波文庫)がある。久次は与三郎の実の親に仕えた家で大恩がある。腹を切ったのは、与三郎に妙薬と生血で与三郎の全身の切り傷を治すため。串田の演出は、この荒唐無稽にして歌舞伎らしい「モドリ」をカタルシスとして描くのではなく、実にばかばかしい人間たちの愚かさとして暴いてしまう。
そのかわりに大団円として用意するのは、すべてが終わった後、与三郎の七之助を舞台にひとり置いて「しがねえ恋の情けが仇」と名台詞を巧みに使って、人生そのものの無情を強く打ち出すくだりだ。青い空、白い雲、江戸の町の屋根。たったひとりの与三郎。坊ちゃん育ちで恋もしたが、結局は困難のなかで孤独に死んでいった男の悲哀が、この『切られの与三』の眼目にある。また、繰り返される「江戸の夕立」も演出の意図を強調する。

これまで女方を中心に勤めてきた七之助からすれば、『切られお富』を演じるのが定法だろうが、あえて立役に挑んで、生にもだえ苦しむ魂がかもしだす色気を見せた。また、企みのなかで悪党振りをみせつけた扇雀も出色の出来。そして、歌舞伎の身体と現代演劇の台詞回しを自在にこなす笹野高史の技藝も成熟してきた。与三郎の七之助と再会した場面で情愛がこもった。三十一日まで。