2018年5月12日土曜日

【劇評107】豊潤にして澄み渡る心境。菊五郎の弁天小僧

歌舞伎劇評 平成三十年五月 歌舞伎座夜の部

五月團菊祭の歌舞伎座。夜の部は、菊五郎の世話物極め付きというべき『弁天娘女男白浪』が出た。
昭和四十年六月、東横ホールで初めて演じてから、五十年あまりの歳月が過ぎた。今回は満を持して、「浜松屋」と「稲瀬川」だけではなく、菊五郎自身が「立腹」で立廻りを見せ、滑川土橋の場まで半通ししたところにも並々ならぬ意欲を感じた。
五代目菊五郎が初演し、六代目、七代目梅幸、当代と続き、また現・菊之助も襲名以来重ねて演じてきた狂言である。音羽屋菊五郎家の家の藝の代表というべき作品である。菊五郎は、豊潤な色気を失わず、不良の魅力を発散している。しかも、春の澄んだ空と通じるようなむなしさ、悲しみさえ感じさせた。
まず、「浜松屋」では、「見顕し」にすぐれている。作為はほとんど感じさせず、嫁入り前の武家の娘から、稚児上がりの小悪党まですらりと変わっておもしろい。「稲瀬川」では、当然のことながら海老蔵の日本駄右衛門を圧する気迫がある。さらに「立腹」では、立廻りの手は短くなっているものの生きることの懸命さをすっと手放してしまった悪党の心がよく伝わってきた。松也の鳶頭、種之助の宗之助、寺嶋眞秀の丁稚長松を見ていると、世代が確実に交替しつつ、菊五郎劇団のDNAが受け継がれていくのを感じた。
團蔵の幸兵衛、橘太郎の番頭、市蔵の狼の悪次郎、梅玉の藤綱。
続いて久しぶりに『菊畑』が出た。
松緑の智恵内、團蔵の法眼、児太郎の皆鶴姫、時蔵の虎蔵。それぞれの心の葛藤を、義太夫に乗せて芝居にしなければならぬ至難な狂言を次ぎに繋げるために健闘している。時蔵は先月から大変な活躍振りで、立女形としての実力を東都に知らしめている。ただし、色若衆となると、出では女方の色が強く違和感を感じさせた。後半はさすがの実力で若衆ならではの身のこなしを見せつける。
いずれは『六歌仙容彩』の通しが期待される菊之助。女方舞踊だけではなく、立役の舞踊も、勘三郎、三津五郎なきあとは、この人が規矩正しく継承していくのだろう。その試金石となるのが、今月の『喜撰』と六月の『文屋』である。
『喜撰』についていえば、茶屋の女にのぼせた高僧ではあるけれど、品格を決して失わないところがいい。ちょぼくれ、ワリミも軽やかにこなしている。ただ、こうした演目は、技巧の確かさを消していくことが必須となる。それには回数を踊って、自然体を獲得する過程を経なければならない。千穐楽近くにもう一度観てみたいと思わされた。二十六日まで。