2018年2月10日土曜日

【劇評102】襲名で見せる白鸚の進境。幸四郎の覚悟。染五郎の花。

 歌舞伎劇評 平成三十年二月 歌舞伎座夜の部 

白鸚、幸四郎、染五郎、三世代の襲名も二月目。夜の部は、『熊谷陣屋』、『七段目』と高麗屋にとって大切な演目が出た。
襲名は、家の藝を継承する覚悟を示す場である。新・幸四郎は、『熊谷陣屋』の熊谷を勤めた。武士が墨染の衣に身を包んで、身代わりとなって死んだ我が子を弔う。絶望の深さ、断念の苦さは、役者としての技巧ばかりではなく、いかに人生と対峙しているかが問われる。初代白鸚、現白鸚、伯父にあたる吉右衛門の熊谷を思いつつ、新・幸四郎ならではの『熊谷陣屋』となった。これまでの熊谷は、英雄の悲哀に力点があった。ところが今回の舞台には、老いの要素が薄い。あくまで壮年の熊谷であり、だからこそ、魁春の相模とのあいだに生まれた大事な子を亡くした無念が胸を打つ。雀右衛門の藤の方と相模の対照的なありようもくっきりと打ち出された。熊谷が若いからこそ、女たちの悲しみも切実極まりない。家長として毅然としつつも、どこかに脆さも感じられる熊谷となった。
一方、菊五郎の義経と左團次の弥陀六のやりとり、肚の探り合いは、安定感がある。長い間、同じ舞台を踏んできたふたりの呼吸があっている。菊五郎と左團次の諧謔を好む個性も生きている。この脇筋の好演があるからこそ、熊谷と相模、藤の方の芝居が生きてくる。芝翫、鴈治郎も脇に回って襲名を支えている。
白鸚は隠居名ではあるが、このまま退くつもりは微塵もない。『仮名手本忠臣蔵』のなかでも華やかな舞台面とはうらはらに、由良之助内心の苦渋を見せる「七段目」。遊蕩にふける由良之助を作りすぎず、遊びに溺れず常に討ち入りへの道筋が頭から離れない由良之助を、白鸚は描き出した。
密書を持ってくる力弥は、新・染五郎。若衆は、若年で勤めるのは難しいが、持ち前の美貌で切り抜ける。ふんわりとした柔らかさ、色気が出て来るのは、これからだろう。
さて、今回の公演では、お軽を玉三郎と菊之助。平右衛門を仁左衛門と海老蔵。偶数日と奇数日で交替して勤める。歌舞伎座の招待日は、海老蔵、菊之助の組み合わせだった。海老蔵の平右衛門が討ち入りに加わりたいと願う願書を突き返す件、足軽の身分をおとしめる件、白鸚と海老蔵の個性もあって、危うい均衡を示す。白鸚の大きさ、海老蔵の直情が生きている。
のちに菊之助のお軽が、平右衛門の殺気に怯える件もよい。庭木戸の向こうで怯えるお軽、本舞台でなんとかなだめすかそうと努める平右衛門。海老蔵の平右衛門は、苦労が身に染みている。
兄妹の情愛、大義に向かう兄、夫勘平の死を知らぬ妹の憐れが生きた。菊之助のお軽は、勘平の死を知っての泣き落としで、芝居は大きいが、ややリアリズムに傾く。「七段目のお軽」ではなく、「忠臣蔵のお軽」として、ミドリの上演でも芯を貫こうとする意思が感じられた。
先月の舞台でも思ったのだが、襲名ならではの破格な座組もあって、白鸚は、これまでの理知的な芝居から、更に高い芸境へと変わりつつある。
旧歌舞伎座のさよなら公演、新歌舞伎座の杮茸落を思わせる大一座を楽しめるのが、『芝居前』。藤十郎も山城屋抱え芸者お藤で、華を添える。楽善、我當、猿之助も顔を見せた。二十五日まで。