2017年12月8日金曜日

【劇評94】玉三郎が高い藝境を示す『瞼の母』

 歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第三部

第三部は玉三郎が座頭。俳優としての魅力はもちろんだが、芯に立つ役者としての統率力、透徹した美意識に対する信頼が、玉三郎の舞台を支えているのだろう。客席を熱い観客が埋めていた。
第三部はなんといっても長谷川伸の名作『瞼の母』を玉三郎のおはま、中車の忠太郎が人間の心の振幅を全力で、しかも精緻に描き出し高い水準の舞台となった。
いまさらながら長谷川伸の戯曲が巧みである。序幕、萬次郎の半次郎母おむら。大詰第一場では、玉朗の老婆。第二場では歌女之丞の夜鷹おとらと、母の幻を辿る旅が重なる。中車の忠太郎は、生き別れた母を恋い慕いつつ、みずからのルーツを見定めなければいられない人間の宿命を導き出す。あえていえば、零落した老婆たちをいたわるだけではない。一方で冷ややかに突き放すそぶりも垣間見えて深い。失われた母を探す旅は、きれいごとではない。なぜ捨てたのだと、うらみ、悲しむ心がひしひしと伝わってくる。
そして第三場、眼目となるおはまの居間。一言でいい。母よ、子よと名乗りあいたい半次郎の心情。そしてやがて諦め、怒りがこみあげてくる過程が克明に描写されている。また、玉三郎のおはまは、重厚かつ圧倒的。すばらしい藝境に至っているとわかる。梅枝のお登世の未来への憂い、やくざものと関わることの怖れ、過去の自分への自責の念。母よ、子よと抱き合いたいのにそれもかなわない。かなわない心の内にこそ、劇が宿っている。人間が生きている。平成の世が閉じようとする今、人間の苦渋を、単なる台詞劇でもなく、歌い上げる人情劇にも終わらなかった。人間の生を全身で演じきる劇として『瞼の母』は成立していた。石川耕士演出。
続いて玉三郎が折に触れて取り上げてきた『楊貴妃』。能楽の形式を取り入れつつも、京劇の身体技法、歌舞伎の演出を取り入れて独自の優美な世界を屹立させている。中車の方士も神妙に、落ち着いて勤めている。二十六日まで。