2017年12月8日金曜日

【劇評92】心の水脈。愛之助の『実盛物語』

歌舞伎劇評 平成二十九年十二月 歌舞伎座第一部

年の瀬の歌舞伎座。例年、京都では顔見世が開いていることもあって、東京は少数精鋭の一座だが、無人だからといってあなどってはいけない。実質のある演目が並んでいる。
第一部は愛之助の『実盛物語』から幕を開ける。霧が流れる琵琶湖湖畔の芝居だが、愛之助のおおらかな芸質が生きて、単なる怪異譚には終わらない。白塗りが映えて、情感のある佳品となった。
この舞台を支えるのは瀬尾の(片岡)亀蔵。実盛と瀬尾の対比。そして瀬尾の自己犠牲によるモドリがあってこそ、ドラマとしての実質が確保される。
愛之助には、おおらかさばかりではなく、のちに太郎吉から手塚太郎となる武人に打たれる未来の予感がある。戦場の無残を先取りして、心のなかに冷ややかな水流が流れているかの趣きであった。
松之助、吉弥が九郎助夫婦を勤めて庶民の篤実な生活を描き出し。御台の葵御前は、笑三郎。屋台の柱によりかかっての風情がいい、郎党は、宗之助、竹松、廣太郎、廣松が勤めた。
続いてこちらはまさしく怪異の世界を中世の闇から取り出す『土蜘』。彦三郎の源頼光、梅枝の胡蝶、番卒の権十郎、平井保昌の團蔵と世代交替は進みつつあるが、菊五郎劇団の伝統と底力がある。間狂言を確かに演じるのは、これからますます困難になっていくのだろう。僧智籌と土蜘の精を勤める松緑は、気配を消して揚げ幕から出「いかに頼光」の一言であたりを払う。家の藝を大切にする姿勢が際立っていた。二十六日まで。