2017年11月5日日曜日

【劇評88】制服の下のもろい生身の肉体。ホーヴェ演出の『オセロー』

 現代演劇劇評 平成二十九年十一月 東京芸術劇場プレイハウス

なぜ、海外の演出家を呼ぶ舞台が多いのですかと、演劇関係者が足繁く訪れる小料理屋の大将に聞かれた。しばらく考えて、「どうしてでしょう。よい俳優は外国の演出家の言うことを聞くでしょうから」と応えた。あまりまともな返事とはいえない。
ただ、かつて九十年代にデヴィッド・ルヴォーの演出に親しんだ私からすると、俳優を励まし、勇気づけ、言葉での決闘に送り出していく姿勢は、外国人演出家に共通しているのではないかと考えている。
中劇場の舞台が続いている。なかでも十年に一度の舞台に接したと思ったのは、十一月のはじめに三ステージだけ上演されたイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『オセロー』だった。オランダのトーネルグループ・アムステルダムによるプロダクションだが、一九七○年生まれのモロッコ系オランダ人ハフィッド・ブアッザによる新訳を採用している。
ムーア人のオセローを演じるハンス・ケスティングは、肌を黒く塗ったりはしない。名優ローレンス・オリヴィエでさえムーア人を演じるために必要と考えたのに、ホーヴェ演出はこの選択を避ける。白人のハンス・ケスティングは、たくましい肉体を持っている。ヴェニスの名家の娘デズデモーナ(ヘレーヌ・デヴォス)とは対照的である。すぐれた体躯を持った異国の軍人オセローと、きゃしゃで抱きしめれば壊れそうな肉体のデズデモーナ、この対比を観るだけで、ふたりの間に文化的宗教的な対立があるとわかる。いや、オセローは、自分以外のすべての人間と対立しているからこそ、ヴェニスの元老院議員である父のブラバァンショー(アウス・フレイディナス・ジュニア)の呪いのような言葉を受けて、悲劇へと突き進んでいくのだ。冷静な判断ができない。原作戯曲を演出するとき、冷静であるはずの軍人オセローがなぜこれほどまでにイアーゴ(ルーラント・フェルンハウツ)の計略に乗ってしまうのかが説得力を持ちにくい。ホーヴェ演出は、ポストコロニアリズムの陥穽をくぐりぬけている。旧植民地への贖罪意識に囚われてはいない。あらゆる人間のなかにある欲望と暴力のありかたを鮮明に描き出していた。
続いて、現代的な制服をオセローやイアーゴらに着せた視覚的な効果が大きい。ホーヴェ演出でオセローやイアーゴは、頻繁に制服を脱いで、裸の上半身、ついには下半身さえもさらす。軍隊は暴力的な権力装置であるのはいうまでもない。その長たる将軍は、絶大な権力を握っている。けれども制服を脱いだとたん、もろい生身の肉体を抱えている。どんなに筋肉質で立派な肉体であろうと、刃を当てれば血が噴き出す。嫉妬に狂えば、狂気に取り憑かれる。人間の欲望の果てしなさ、愚かさを舞台にたたきつけたところにホーヴェ演出の鋭さがある。
このホーヴェ演出の『オセロー』舞台とリチャード・トワイマン演出の『危険な関係』については、雑誌「悲劇喜劇」の1月号に詳しく書く。ご期待ください。