現代演劇劇評 平成二十九年十一月 本多劇場
ケラリーノ・サンドロヴィッチは、多作である。
さまざまな形態で劇作・上演台本・演出を行い、長い年月にわたって才気ある舞台を作り上げてきた。
今回、KERAが主宰するナイロン100℃の第四十四回劇団公演『ちょっと、まってください』を観て、この劇団と劇団員が成熟のただなかにあるのを思った。
本作は劇作家別役実へのオマージュであると明らかにされている。長いキャリアを積み上げてきた現代演劇の長老別役実は不条理演劇の作家だと考えられている。ただし、不条理演劇とは何かとの問いは難しい。ベケット、イヨネスコ、ピンター、安部公房、それぞれの不条理についてそれぞれの解答があるだろう。仮に共通項があるとすれば、世界はほとんど理解不能であるとの断念があるのではあるまいか。
別役についていえば、漂流する家族が、ある家に侵入することで、すべてが変質する。共同体とはいかにもろく、崩れやすいものかがあきらかになる。そんな構造を持った劇作が多い。
ところが、KERAの『ちょっと、まってください』では、立派な邸宅を所有する家族は、すでに倦怠の極みにある。金持の父親(三宅弘城)はじめ母(犬山イヌコ)、息子(遠藤雄弥)、娘(峯村リエ)とお互いの話を聞き飽きている。その家族に仕える使用人(マギー、小園茉奈)らを巻き込んで、家の経済状況を含め嘘に嘘を抱えている。ここでは他の家族が侵入する前から、共同体がすでに崩壊しているとまず、明らかにされる。
それに対して、乞食の父親(みのすけ)とともに漂流する息子(大倉孝二)、娘(水野美紀)、祖母(藤田秀世)、母親(村岡希美)らには、血縁関係はなく、ただ家族を偽装しているらしいと次第に明らかになる。
この二つの家族が交錯するとき何が起こるのかが焦点となる。
家や金や血縁関係がなにかを保全するのではない。すでも崩れかけた家族関係は、むしろ他者が侵入することによって活性化する。不条理は負の概念ではなく、むしろ現実をきりぬけるための唯一の方策ではないかとこの劇は語りかけてきた。
七十年代から八十年代にかけて竹内銃一郎や山崎哲は、家族の崩壊を突きつける劇を数多く書いた。別役の影響を受けたこの世代の作家達の仕事も踏まえて、KERAが行ったのは、ある問いかけである。不条理が日常となり、むしろ不条理を積極的に認めることが、出口のない世界を生き延びるための方法ではないか。そう語りかけていた。
もちろん、こうしたアクロバティックな劇作を支えるのは、劇団員の確かな技藝である。かつて文学座や木山事務所などで頻繁に上演された別役の舞台を支えていたのは、老練な新劇俳優のリアリズムに基づいた技藝であった。みのすけ、三宅をはじめとする劇団員たちは、確かな技術で、今そこにいる人間を描き出すだけの力を備えている。それぞれの独特な個性によりかかるのではない。特異な個性こそが、ありのままの人間なのだと思わせるだけのリアリズムが確かにある。
KERAの笑いには、いくつもの仕掛があるが、私が面白く思うのは、AがBにツッコミをかけるときに、Bがいかにそのボケにずらしをかけるかであった。ここではボケによってツッコミが無価値にされる逆転がある。こうした逆転は、不条理演劇の世界と親和性があり、だからこそ劇場は絶え間ない笑いに包まれていたのだろう。十二月三日まで。そのののち、三重、兵庫、広島、北九州、新潟を巡演。