2017年1月9日月曜日

【劇評66】絶対はない。

 歌舞伎劇評 平成二十九年一月 歌舞伎座
新春の歌舞伎座。大阪を含めて五座開いているが、さすがに大立者を結集し、新しい春を言祝ぐ雰囲気に包まれていた。
昼の部は真山青果の『将軍江戸を去る』から始まる。染五郎の徳川慶喜、愛之助の山岡鉄太郎の新たな顔合わせだが、様式よりは心理に傾く新作歌舞伎で、このふたりによって、青果のこの戯曲が、武士社会の階級をともなうぎりぎりの変動をも描いた舞台だとよくわかった。愛之助の山岡は、第一場の上野彰義隊の場。黒門を押し入ろうとする鉄太郎と、とどめようとする彰義隊新頭取の天野八郎(歌昇)のぎりぎりのやりとりが面白い。歌昇の若さが切実さと悔しさを滲ませる。山岡は旧体制の権力者で義兄にあたる伊勢守(又五郎)に救われて寺内に入る。青果にとっては、将軍慶喜を説き伏せる山岡もまた、時代を動かす人間を気取ってはいるが、旧体制の権威の元にある人間にすぎないのだ。そのテーゼは、眼目の大慈院対決の場でよくわかる。徳川慶喜と山岡鉄太郎、水戸学をめぐって、勤王、尊皇の語句論議をするが、これは言葉の争いに見えて、武士階級の終焉を、いかにかりそめの論理で納めていくかの言語ゲームとなっている。染五郎、愛之助は、できるかぎり台詞を歌わずに、幕府の終焉ではなく、武士階級の終焉と新しい権力体制の誕生を受け入れざるを得ない人間たちのドラマとしている。
従って、将軍が千住大橋を渡って、江戸を去る場も、情緒的に流れない。新しい朝が来た。そして、新しい時代へと動いていく。役割を失ったプレイヤーは、この場所を去るしかない。そんな諦念が滲んでいた。
続く『大津絵道成寺』は、愛之助にとってはめずらしい大曲の舞踊。『京鹿子娘道成寺』を趣向で大津絵の世界に移している。外方(所化)と唐子の登場が新鮮に見える。
変化物で五役を踊りきるが、やはりいなせな船頭が本役。本来女方ではない愛之助が、藤娘の姿でまったく不自然を感じさせないのはむずかしいことだ。背中がどうしても立役に見える瞬間がある。また、鈴太鼓の鳴し方が正確ではないのが気になる。種之助の犬が健闘。染五郎は『矢の根』の五郎で、押し戻しを勤め、正月らしい曽我物の情趣を加えた。
さらに吉右衛門の十兵衛、歌六の平作による『沼津』が、思ったほどには、ふるわない。今、絶頂の大立者だから、すべてがよいわけではない。ひとりが絶対ではなく、顔合わせと演目によって、その出来は決まる。
吉右衛門の十兵衛はすでに手に入っていて悪いはずはないが、平作を歌六が生真面目なままに造形していて、頼まれた荷を依頼した十兵衛に背負わせてしまう愛嬌に乏しい。確かに老いの辛さ、厳しさは伝わってくるが、それだけに、全編を通して、押し出された老いに、周囲が屈服していく劇になってしまっている。老年が多くなった時代状況によって、この芝居も見え方が観客にとって、さらに深刻になっていくのだろう。注意が必要だ。
花道で、ころんだ傷に大事の薬をつける大切な場面がある。ここには達者な吉右衛門と歌六にリアリティがある。けれど、後段に向かって、伏線を敷いている場面だけに、「筋売り」ではなく、ふたりの交感、根本には、洒脱さがあってほしい。
雀右衛門のお米は、襲名を経て、役者ぶりが一回り大きくなった。出は相変わらず可憐だが、刻々と移り変わる局面で、こころのうちを変化させていく。また、受けの芝居が、芯の役者の邪魔になるどころか、相手役を助ける力ともなっている。盗みの試みが発覚して、父に「堪忍してください」とすがりつくところの芝居も大仰にならず、説得力があった。
夜の部は、幸四郎の井伊直弼と玉三郎のお静の方、雀右衛門の昌子の方による『井伊大老』である。北條秀司による季節の移り変わりと、天候によって日々を送る人間の哀しさ、辛さを繊細に書いた新作歌舞伎。
この顔ぶれに不足はないが、幸四郎、玉三郎がニュアンスを出すために、ちょっとした笑い声やしぐさの入れごとで芝居を運んでいるのが気になる。あまり過度にすぎるとふたりの真情が見えにくくなり、彦根での貧しい生活を思う気持を信じられなくなる。
ふたりの衣裳も問題。とてもいい趣味だと思うが、大老の家とはいえ、華美に傾いてはいないか。
富十郎の遺児、鷹之資が上『越後獅子』を踊り、真摯でひたむきな踊りを見せる。下は、玉三郎の美意識に貫かれた『傾城』。
切りは染五郎の松浦公、愛之助の大高源吾による『松浦の太鼓』。年の暮れの淋しさと念願が成就した歓びが、年末から正月への時の移り変わりと重なり、普遍性を持つ。染五郎は、癇性を持つが、実は包容力もある松浦の殿様を、いささか粘着質に描く。句を詠み上げるときに、俳諧という芸への愛着が見えるのは、出色でこの人ならではの台詞の調子のよさが全体を支えている。また、愛之助の大高源吾は、大仰な人物に作りすぎていないのがかえっていい。忠臣蔵の物語のなかでは、大石内蔵助らと比べると、脇を守る心がけのよさがある。
なんといっても『松浦の太鼓』のみどころは、狂言回しとなる宝井其角の出来であろう。左團次は年齢とともに成熟を重ねて、この思慮深い好人物をよく演じている。無駄をよくはぶいて、力まない。それこそ俳諧の奥義に達した人物の境地だろうと思う。二十六日まで。