2016年11月12日土曜日

【劇評65】菊五郎の勘平は、過去に生きている

歌舞伎劇評 平成二十八年十一月 国立劇場 

菊五郎による五・六段目、吉右衛門による七段目の『仮名手本忠臣蔵』が出るとなれば、もう発表になった時点で、平成歌舞伎の記念碑となるべき舞台になると予想ができた。実際には、その期待にたがわぬ成果だった。ただし、今後もこの水準の公演を永遠に期待できるとは限らない。時代とともに、演者も舞台も移っていく。そんな残酷さもまた裏側に感じてしまったのは、私だけだろうか。
菊五郎の勘平は、遠くを見ていて、心がここにないかのようであった。鉄砲渡しの場、二つ玉の場、いずれもさらさらと、これまで身体にたたき込んできた型が移ろうていく。千崎弥五郎(権十郎)との偶然の出会いと、討ち入りの徒党に加わることが出来るのではという期待。猪とあやまって人を鉄砲で撃ってしまった悔悟。いずれも刻々と描写されて思いは決して軽くはない。軽くはないが、菊五郎の勘平は、今、ではなく、過去に生きているように思える。
決定的になるのは六段目。身売りをした女房お軽(菊之助)の乗った駕籠を押しとどめ、判人源六(團蔵)とお才(魁春)に詰め寄られるが、これも柳に風の様子である。さらに、義父を殺したとのであろうと、これまで穏やかだったおかや(東蔵)に怒りをぶつけられても固い殻をかぶっているかのようである。二人侍(歌六、権十郎)を迎えてからも、応接は確かである。脇はしっかりとして現実味のある芝居をしている。けれど勘平は遠くを見ている。
確かに、だれかが慎重に与市兵衛の死因を確かめれば、勘平の切腹は起こらなかった。けれども、この芝居の眼目は、父を殺してしまったという悔悟にはない。「色にふけったばっかりに」。お軽との密会で主君の大事に間に合わなかった男が、よい死に場を探している。勘平は本当のところ由良之助らの上司、朋輩に許され、徒党に加わり、討ち入りに参加できるなどとは思っていない。武士としての名分が立つ死に方と機会を探している。その悪夢のような人生の物語なのだと、菊五郎の勘平を観ていてよくわかった。
この勘平と対照的なのは、吉右衛門の由良之助ある。由良之助はいかに遊蕩に溺れようとも、今の現実を見失わない。それは、自分がいなければ仇討ちはかなわず、師直の首をあげてから、自分の本当の死に場があると核心しているからだ。その意味では、菊五郎の勘平はすでに死んでいるべき人間の物語であるのに対して、吉右衛門の由良之助は、これから死ぬべき人間の物語となっている。この五・六段目と七段目に、対照的でしかも実力に揺るぎないふたりを続けて観ることができるのは、またとない機会となった。そして、『仮名手本忠臣蔵』の本質について改めて考える機会にもなるだろう。
冒頭に『落人』。錦之助の勘平に、菊之助のお軽。これはあえていえば、ここにはいないだれかの夢の中の夢想と考えればおもしろい。二十六日まで。