歌舞伎劇評 平成二十八年六月 シアターコクーン
コクーン歌舞伎も十五弾目と聞くと、気が遠くなる。勘三郎が蒔いた種子が大きく育ち、より大胆な第二期に突入したというのが、私の考えである。
今回の『四谷怪談』(四世鶴屋南北作、串田和美演出・美術)は、平成十八年に「北番」「南番」として別のテキストレジを行った上演のうち、「深川三角屋敷の場」を重く見た北番をもとに再構成されている。扇雀のお岩・与茂七、獅童の伊右衛門。勘九郎の直助権兵衛、七之助のお袖の配役で「三角屋敷」が出るとなると、お岩、お袖姉妹の母からゆずられた形見の櫛が流転していく物語になるのかと思った。それはそれで間違いではないが、伊右衛門とお岩、直助とお袖の関係とそれぞれの造形をもう一度見直して、歌舞伎の役柄そのものを再創造する試みのように思えた。
具体的には獅童の伊右衛門は色悪ではなく、主体性なく流されていく一人の男であった。お岩は父左門の生き方を尊敬そして反発しつつ、やはり男に頼らなければ敵討ちもそして生活も成り立たない哀れな女ではなく、この世の地獄に向かってひたすら落ちていく女に見えた。また、直助は小悪党というよりも女にだらしない好漢であり、お袖もまた夫与茂七と好漢直助のあいだで揺れる女であった。南北の原作そのものというよりも、それぞれの役を現代人の目で読み解き、成立させるにはいったいどうしたらよいのか。その視点に貫かれているからこそ『東海道四谷怪談』ではなく、今回は『四谷怪談』なのだろうと思う。
南北というと江戸の文化文政、爛熟した世相を映し、当時の下層社会を生世話として描いた作家とされる。もちろんその通りではあるが、こうした枠組みによって、南北の登場人物が型にはまってきてしまっていたのも事実であろう。思えば、21世紀になってからの東京もまた、文化文政時代に負けず劣らず、人がまっとうに生きることが難しい社会となった。民草の生活などなにも考えぬ総理が、独裁をふるって人々を苦しませている。そこには自殺や貧困が圧政のもとに生み出されている。串田の新しい『四谷怪談』は、現在を告発する劇として、古典を再生させたのであった。
衣装をふくめ江戸と現在が混在する。つまりは、ちょんまげとスーツが同じ舞台に乗るのである。ここまで来たならば、原作の時間軸にこだわることなく、より大胆なレジが行われ、さらに混乱が起きても作品性をそこなうどころか、よりインパクトを獲得できたのではないだろうか。二十九日まで。