2016年3月21日月曜日

【劇評42】監視社会の泥濘 風間杜夫と小泉今日子の色気

現代演劇劇評 平成二八年三月 本多劇場

岩松了作・演出の『家庭内失踪』を観た。文學としての演劇、いや演劇の文学性といったらいいのだろうか。領域を横断する表現が、舞台上にある。
第一に、この作者が言葉の裏側にある含意について、たぐいまれな想像力を働かせれているとよくわかった。
また、第二に日本だけではなく近代文学がその出発点から抱え込んできた性の問題を改めて直視していると考えせられた。
最後に、俳優が台詞に文学性を与えることの是非についても思うところがあった。
ポット出版から出た戯曲のあとがきに岩松自身が書いている。
「36歳の時に書いた『蒲団と達磨』の後日談として、この『家庭内失踪』を書いた。
『蒲団と達磨』は、高校教師の野村のところへ後添として入った雪子が、先妻の子であるかすみの結婚式の夜に、夫の野村に別居を言い出すという話だった。雪子は野村の性的な欲求に耐え難いものを感じていたのだ。
年月が経ち、野村は年齢からくる精力の衰えに苦悩している。雪子にとってそれはあの頃の立場の逆転を意味しているわけだった。そして結婚したかすみはいかなる理由でか、夫である石塚のもとにいることを嫌い、実家である野村家に身を寄せている。それがこの『家庭内失踪』の状況。この逆転の話を書いた私は63歳になっている」
作者自身による要約はめずらしいが、この整然たるストーリーとは裏腹に、現実の舞台は錯綜している。
その錯綜をもたらすのは、まず岩松自身が演じる望月という謎の男だ。
二年ほど前から望月は長年暮らした妻の家から出て、
「旦那がいない世界を女房に見せたい」
がために同じ町内にアパートを借りて、妻の動向を監視している。ときには、ピザ屋の配達の制服まで着て、妻の外出を注視しているのだ。
そのうちに、野村(風間杜夫)と雪子(小泉今日子)の動向を同居するかすみ(小野ゆり子)が監視しているとわかる。
さらに雪子と別居した石塚は、かすみを監視するために毎週、部下の多田(落合モトキ)を野村の家に訪ねさせている。多田を軸にかすみとの関係、雪子との関係が疑われ、ついにははじめ誰の指令で訪れているのかさえわからぬ青木(坂本慶介)までが現れる。
ここにあるのは、お互いが性というつかみどころのない衝動のために右往左往する姿であり、だれの言葉も信じられず、その含意を読み合っている状況が浮かび上がっている。
これはチェーホフの戯曲が実現した群衆劇の刻々と移り変わる心理戦を継承し、しかも、パソコンや携帯を巧みに使っている。

けれど岩松の舞台のおもしろさは、こうした新しいメディアによる監視ではなく、ピザ屋のコスチュームを着てまでも妻を尾行せずにはいられない望月のありようである。
また、多田を駅まで送っていった雪子を尾行するエンブレム付ブレザー姿の青木の奇妙さでもある。自分で見たものしか信じられない。けれど、言葉は信じられないために、「確証」はつねに私たちの手をすりぬけていくのだ。
第二に性の問題であるが、これは俳優の身体性と抜き差し難くからみあっている。熟年期に達した雪子の後ろ姿。豊満な腰が揺れるときに、野村家を訪ねる男たちにさざ波が立つ。逆に若いかすみは痩身で性的な匂いが薄く挙動にかわいらしさが目立つ。老年の体型となった風間の野村、中年太りした岩松の望月もその身体にうずくまっている性の存在が折々にあらわになる。それぞれの俳優としての力量があるのも勿論だけれども、演出がこの身体の匂いにこだわっているとわかる。その意味でも、『家庭内失踪』はまぎれもなく 文学的でありつつ身体的な演劇なのであった。
最後にすれ違う言葉についても、示唆にあふれている。劇の終盤、野村と雪子が言葉の二面性について語るくだりがある。野村がニュースを告げるアナウンサーが、哀しいニュースの話題を急にきりかえて明るく振る舞うことの違和感を語ると、雪子は、はしごの上の曲芸を見せる消防士に喝采を割れんばかりの拍手を贈る子供たちのニュースを、哀しそうに演じてみせる。おそらくはこのように、家庭内の会話はすべてが「言い方」によって曖昧にされ、ときには逆の意味を持っていると明らかになるのだった。
風間、小泉は岩松の台詞を自分自身の言葉にして破綻がない。

なぜ、人間と人間は、親子兄弟ばかりではない。夫婦や恋人という他人。そんな関係もない他人まで監視し合い、共感し合っているように振る舞わなければいられないのか。SNSがもたらした現在の監視社会から「失踪」することの困難さ、尾行や待ち伏せの監視を避けることの難しさを告げていた。原田愛の美術によって、野村家そのものが生き物であり、まるで幽霊のように人々を脅かす存在となった。二十三日まで下北沢・本多劇場。大阪、名古屋からいわきまで全国を巡演。