2016年1月18日月曜日

【劇評37】暗闇に底光りする猿之助の女方芸

現代演劇劇評 平成二八年一月 シアターコクーン

『元禄港歌』(秋元松代作、蜷川幸雄演出)の初演は、一九八○年八月、帝国劇場。改めて数えると私は二四歳で、劇評を書き始める前年にあたる。もとより蜷川幸雄の演出作品は観始めていた。今回の舞台を観て、初演が懐かしく思い出され、また、当時の私は何も読めていなかったことがよくわかった。
当時の私は「葛の葉の子別れ」の深層にある意味も、謡曲「百万」にこめられた親子の物語も理解してはいなかった。単に知識のあるなしではなく、人間の情について思いを至らせるには若すぎたのだと思う。
高い評価を得た『近松心中物語』の次回作とあって、スタッフ・キャストが共通だが、今回のパンフレットによると、『元禄港歌』が間に合わなかった場合は、『近松心中物語』が上演される予定だったという。その共通性もあって、『近松心中物語』の出来のあまりよくない続編とだけ思い込み、椿の花が降ってくる情景だけが記憶に刻まれていた。
一九九九年の明治座での再演は、理由はよくわからないが見逃している。なんと、三六年ぶりに観る『元禄港歌』が傑出した舞台に思えたのは、初演で嵐徳三郎が演じた糸栄を市川猿之助が勤め、また、糸栄とかつて恋仲にあった筑前屋平兵衛が、金田龍之介から市川猿弥に替わったところにも見つかる。商業演劇の一作品として初演された舞台が、今回は歌舞伎としての位置づけを強めた。そこには、現在輝きを増している猿之助の女方芸のありようが大きく作用しているだろうと思う。
糸栄は瞽女の集団を率いる「母」である。
瞽女の初音(宮沢りえ)や歌春(鈴木杏)からも血がつながっていないにもかかわらず、寝食を共にし「母」と慕われている。また、かつて平兵衛と糸栄の間に生まれて、幼い頃から筑前屋に引き取られ、平兵衛とその女房お浜(新橋耐子)の実子、長男として育てられ、江戸の出店をまかされている筑前屋新助(段田安則)の母でもある。
こうした複雑な「母」として猿之助が選んだのは、かつて美しかった女性の模倣ではなく、実の子の母として生きることを断念し、多くが視覚に障害を持つ女たちを守りつつ、生き延びていく女たちの仮の「母」であった。そこには徹底した内向がある。ほとばしる情念を押さえ込んでいく意志の強さがある。こうした性向を描き出すとき、女方芸はいよいよ輝きを増す。たとえば鏡花の『天守物語』は、やはり女優よりは女方のものだろうと思う。同様に『元禄港歌』の糸栄には実体としての女性を超えた人間存在、超自然的なものと深く結びついた人間のありようが、暗闇のなかに、底光りするからだと思う。
今回の猿之助の芸は、表層的な女性らしさの模倣に終わらず、女性という性の暗闇に届くだけの実質をそなえていた。だからこそ、主演を重ねキャリアもすばらしい宮沢りえや段田安則とともに、劇の中心として君臨しつづけたのであった。
蜷川幸雄の演出も、いよいよ凄みを増している。底辺に生きる職人和吉(大石継太)らの絶望の深さ。そして未来のない境遇のなかで、歌春への恋によっていっとき救済されたかに思えた。けれど、筑前屋万次郎(高橋一生)と歌春の業によって裏切られてしまったときに芽生える狂気。和吉も万次郎も歌春も、この現世に絶望して生きている。なんのやりがいもなく、毎日が過ぎていく絶望が、舞台全体を覆っている。ただ、その一点においても観客は舞台に共感する。
美空ひばりによる劇中歌が、高まる感情の頂点から死へと転落していく人間の宿命を写していてすぐれている。三十一日まで。二月六日から十四日まで大阪公演がある。