2016年1月10日日曜日

【劇評33】百鬼夜行の都 玉三郎の『茨木』

 歌舞伎劇評 平成二十八年一月 歌舞伎座昼の部

歌舞伎座の新春大歌舞伎。顔見世とみまごうばかりに役者が揃う。なかでも昼の部の『石切梶原』と『茨木』がすぐれている。
『石切梶原』は、梶原平三を演じる役者にとっては気のいい芝居でも、観客にとってそれほどの実質があるのか疑いをもって観てきた。今回の吉右衛門は、こうした役者の気のよさをしりぞけて、胆力と気迫にあふれた武士が困難な出来事に微動だにせず、あっさりと切り抜けていく、その自然体を見せたところで上質の劇となりえた。大庭三郎に又五郎、六郎太夫に歌六、梢に芝雀と脇にも実力者が揃って、これでまずければ、平成の歌舞伎に未来はないといっていいほど。俣野は歌昇、奴菊平は種之助。厳しい修行の場を与えられて、人気に踊らされず実力をたくわえているふたりが頼もしい。
昼の部の切りは、玉三郎の『茨木』。冷ややかな夜の闇、百鬼夜行の都の空気をまとった花道の「出」で勝負はあった。松緑の渡辺の綱がこの伯母の気迫に押されて、守るべき片腕を奪われるのももっともと思わせる。おそらくは自前だろうけれど、素晴らしい着付けで溜息がでるほどだった。士卒に鴈治郎と門之助、家臣宇源太に歌昇。そして太刀持の音若に左近が初々しい。
朝幕に『廓三番叟』。孝太郎、種之助、染五郎。ベテランに挟まれ、種之助が清涼感のある女形で色気を漂わせる。これから女形も観てみたいと思わせる出来。
橋之助の『鳥居前』。柄も立派。力量も十分なのに、売り物となる土性骨の強さがどこか不十分に思える。義経は門之助。静御前は児太郎。逸見藤太は松江。はじめは不自然に思えたが、剛柔を兼ね備えた藤太のやり方もあるのだと納得。弁慶は彌十郎。ひところはどうしても人の良さが先に立っていたが、近年は役柄がくっきりと見えるようになってきた。二十六日まで。