平成二十七年、今年の一月に「長谷部浩の劇評」ブログを立ち上げた。書いた劇評は、わずかに29本。
決して褒められた数字ではないが、統計を見るとページビューは順調に伸びて4万ビューを今日超えた。
個人ブログの長所は、自覚さえあれば、観劇の翌日でも劇評を発表することができる。即時性のメディアである。
難点は、編集者や校正者の目を経ないために、誤字脱字はもとより、思い込みによる間違いが起こりかねない。
私の場合は、大学院の修了生のひとりに、目を通してもらうようにしてきた。
これだけでも、自分ひとりで書き、アップロードするよりは、安全性が高くなる。
特に今月、変わったなと思ったのは、新橋演舞場の「ワンピース」についての反応だ。
これまでの歌舞伎劇評のおよそ二倍のビューを即座に刻んだ。
コミックの読者が若いために、ネットとの親和力がいいこともある。
それだけではない。
勘三郎が懸命に生涯を賭けてやっていたように、
演劇は事件であり、社会現象にならなければ生き残れないのだなと思う。
一方、多摩美の講義で、今回からある作品の映像を、ほとんど数分ごとに止めて、
演出の技法を解析していく仕事を始めている。
私なりに新しい講義の技法を開発している手応えがある。
繰り返しはいけない。常に自分を変えていく。淀みをつくらない。
そんなことを思いながら、上野毛から帰途についた。
2015年10月14日水曜日
2015年10月11日日曜日
【閑話休題24】東京オリンピックと交わる。野田秀樹監修の「東京キャラバン」
昨夜、「東京キャラバン」公開ワークショックを駒沢オリンピック公園特設会場で観てきた。2020年の東京オリンピックへ向けての企画で、「アート旅団」「文化サーカス」と呼べばいいのかとあるように、移動型の文化イベントのショーケースをご披露した。
まだ、準備段階で、作品としてうんぬんするには気が早い。むしろこうしたイベントが日本の全国の都道府県を巡回したときのインパクトについて思った。
会場は名和晃平による空間構成に加え、音楽、照明が効果的に使われ、この場にいる楽しみ、ざっくばらんにいえば「わくわくする感じ」が開演前から高まっていた。
野田秀樹の監修・構成・演出。日比野克彦の監修補とクレジットされている。「旅立つ前夜 一九六四年の子ら」によって全体がサンドイッチされ、さらに祝祭のマレビト(客人)と題した民俗芸能の披露がある。単なるページェントと一線を画するのは、言葉を大切にしているところだろう。冒頭と祝祭の前には、松たか子と宮沢りえによる朗読があり、言葉とその連なりによる物語を、パフォーマンス集団の身体によって展開していく手法は、演出家野田秀樹がもっとも得意とするものだ。闇の中に浸透していく言葉、そして変容していく空間のダイナミズムは、このショーケースからも容易に読み取ることが出来た。
全体を貫くテーマは「交わる」である。異質なもの、たとえばクラッシックの弦楽と津軽三味線の競演であったり、宮沢りえが演じる人魚とドラァグ・クイーンの交錯であったりするが、この夜もっとも感動的だったのは、前の場で踊り狂ったドラァグ・クイーンたちと次の場をになう松たか子が舞台上ですれ違うときに、さりげない挨拶がお互いの間に交わされた瞬間であった。異質なものが反発し、憎み合い、殺し合う時代を乗り越え、他者を認め、そしてぶつかりあい、理解し合う人間社会への憧憬が、この瞬間に込められていたように思う。私たちの不幸な時代をなげくのではなく、このキャラバンを東京から出発した無償の贈与としたい野田の意思が読み取れたのである。
このキャラバンの終結点として東京オリンピックがある。そこは日本人ならではの柔らかな思想が込められた祝祭の場でありたい。公開ワークショップが終わっても、バックヤードに、そして舞台上に登って人々は、思い思いの時間を過ごしていた。その時間をこれから四年あまりをかけて、育てていければいいと思いつつジョギングやウォーキングの人が絶えない駒沢公園を後にした。
まだ、準備段階で、作品としてうんぬんするには気が早い。むしろこうしたイベントが日本の全国の都道府県を巡回したときのインパクトについて思った。
会場は名和晃平による空間構成に加え、音楽、照明が効果的に使われ、この場にいる楽しみ、ざっくばらんにいえば「わくわくする感じ」が開演前から高まっていた。
野田秀樹の監修・構成・演出。日比野克彦の監修補とクレジットされている。「旅立つ前夜 一九六四年の子ら」によって全体がサンドイッチされ、さらに祝祭のマレビト(客人)と題した民俗芸能の披露がある。単なるページェントと一線を画するのは、言葉を大切にしているところだろう。冒頭と祝祭の前には、松たか子と宮沢りえによる朗読があり、言葉とその連なりによる物語を、パフォーマンス集団の身体によって展開していく手法は、演出家野田秀樹がもっとも得意とするものだ。闇の中に浸透していく言葉、そして変容していく空間のダイナミズムは、このショーケースからも容易に読み取ることが出来た。
全体を貫くテーマは「交わる」である。異質なもの、たとえばクラッシックの弦楽と津軽三味線の競演であったり、宮沢りえが演じる人魚とドラァグ・クイーンの交錯であったりするが、この夜もっとも感動的だったのは、前の場で踊り狂ったドラァグ・クイーンたちと次の場をになう松たか子が舞台上ですれ違うときに、さりげない挨拶がお互いの間に交わされた瞬間であった。異質なものが反発し、憎み合い、殺し合う時代を乗り越え、他者を認め、そしてぶつかりあい、理解し合う人間社会への憧憬が、この瞬間に込められていたように思う。私たちの不幸な時代をなげくのではなく、このキャラバンを東京から出発した無償の贈与としたい野田の意思が読み取れたのである。
このキャラバンの終結点として東京オリンピックがある。そこは日本人ならではの柔らかな思想が込められた祝祭の場でありたい。公開ワークショップが終わっても、バックヤードに、そして舞台上に登って人々は、思い思いの時間を過ごしていた。その時間をこれから四年あまりをかけて、育てていければいいと思いつつジョギングやウォーキングの人が絶えない駒沢公園を後にした。
【劇評29】 吉と出た『ワンピース』のスーパー歌舞伎化
歌舞伎劇評 平成二十七年十月 新橋演舞場
コミックの『ワンピース』が歌舞伎になると聞いても、正直言ってイメージが湧かなかった。今回、舞台を観てから、対象となったシリーズの原作を読んで、なるほどと腑に落ちた。
歌舞伎の多くの作品は、忠節と自己犠牲をテーマとしている。大義のなかに踏みにじられていくアウトローの集団の破滅がたびたび描かれる。特に序幕は、白浪物と八犬伝物が容易に思い出され、ルフィを中心とした海賊の集団の離散。そしてルフィが貴種流離譚の変型として、女だけの島に渡り、その助けを得て、「海軍」に捕らえられた義兄弟のエースを救い出そうとする筋立てとなっている。
演出を中心になって勤め、ルフィとその難儀を救うハンコック、そして「止め男」に相当するシャンクスを演じる猿之助の奮闘公演といえば紋切り型に過ぎるだろうか。麦わら帽子を背負い、少年の無垢と勇気を代表するルフィは、まさしく適役で、役を生き生きと演じている。衣裳や化粧などがコミックに忠実なデザインでありながら、歌舞伎として違和感がないのは驚くべき翻案である。また、若女方に相当するハンコックは、ロングドレスを着るなど工夫をこらしつつ、後ろ姿とはいえ裸体も見せるから、これもまた忠実といって差し支えない。
役者のなかでは、ロロノア・ゾロ、ボン・クレー、スクアードの三役を演じた巳之助が自在な芝居を見せる。特に道化役ともなっているボン・クレーのゲイとしての描き方に精彩がある。単に笑いを取るのではなく、純情と傷つきやすさが役に込められている。「麦ちゃん、あんたならできるわ」とルフィに語りかけるときの誠実さが胸を打つ。また、花道の引っ込みでは、奇抜な衣裳にもかかわらず、歌舞伎の骨法を忠実に守ろうとしている。さすがは三津五郎家の継承者としてのたしなみと感心した。
白ひげの(市川)右近は、さすがの貫禄。マゼランの男女蔵も近年の憂鬱を払うかのような出来。歌舞伎では時に難となる長身を生かしてひたすら「かっこいい」隼人も見物だ。現代演劇の畑から来た福士誠治の身体能力の高さと様式的な演技への挑戦。幅広い役をなんなくこなす浅野和之の自由さも舞台を引き立てている。
サーフィンを使って、客席を斜めに横切る宙乗り、また戦闘のための技をいかに歌舞伎の引き出しとテクノロジーで舞台化していくか。さまざまな工夫が詰まっている。
単にこの舞台はコミックの歌舞伎化にとどまるのではなく、歌舞伎演出とは何か。歌舞伎役者の技芸とは何かに対する鮮烈な問いかけともなっている。少年コミックの典型で物語は、若い世代の成長譚の枠組みを取るが、このスーパー歌舞伎を通して、出演の役者たちがより自由で生き生きとした役作りの愉しさを身にまとうのではないか。そんな期待をこめて『ワンピース』を観た。十一月二十五日まで。
コミックの『ワンピース』が歌舞伎になると聞いても、正直言ってイメージが湧かなかった。今回、舞台を観てから、対象となったシリーズの原作を読んで、なるほどと腑に落ちた。
歌舞伎の多くの作品は、忠節と自己犠牲をテーマとしている。大義のなかに踏みにじられていくアウトローの集団の破滅がたびたび描かれる。特に序幕は、白浪物と八犬伝物が容易に思い出され、ルフィを中心とした海賊の集団の離散。そしてルフィが貴種流離譚の変型として、女だけの島に渡り、その助けを得て、「海軍」に捕らえられた義兄弟のエースを救い出そうとする筋立てとなっている。
演出を中心になって勤め、ルフィとその難儀を救うハンコック、そして「止め男」に相当するシャンクスを演じる猿之助の奮闘公演といえば紋切り型に過ぎるだろうか。麦わら帽子を背負い、少年の無垢と勇気を代表するルフィは、まさしく適役で、役を生き生きと演じている。衣裳や化粧などがコミックに忠実なデザインでありながら、歌舞伎として違和感がないのは驚くべき翻案である。また、若女方に相当するハンコックは、ロングドレスを着るなど工夫をこらしつつ、後ろ姿とはいえ裸体も見せるから、これもまた忠実といって差し支えない。
役者のなかでは、ロロノア・ゾロ、ボン・クレー、スクアードの三役を演じた巳之助が自在な芝居を見せる。特に道化役ともなっているボン・クレーのゲイとしての描き方に精彩がある。単に笑いを取るのではなく、純情と傷つきやすさが役に込められている。「麦ちゃん、あんたならできるわ」とルフィに語りかけるときの誠実さが胸を打つ。また、花道の引っ込みでは、奇抜な衣裳にもかかわらず、歌舞伎の骨法を忠実に守ろうとしている。さすがは三津五郎家の継承者としてのたしなみと感心した。
白ひげの(市川)右近は、さすがの貫禄。マゼランの男女蔵も近年の憂鬱を払うかのような出来。歌舞伎では時に難となる長身を生かしてひたすら「かっこいい」隼人も見物だ。現代演劇の畑から来た福士誠治の身体能力の高さと様式的な演技への挑戦。幅広い役をなんなくこなす浅野和之の自由さも舞台を引き立てている。
サーフィンを使って、客席を斜めに横切る宙乗り、また戦闘のための技をいかに歌舞伎の引き出しとテクノロジーで舞台化していくか。さまざまな工夫が詰まっている。
単にこの舞台はコミックの歌舞伎化にとどまるのではなく、歌舞伎演出とは何か。歌舞伎役者の技芸とは何かに対する鮮烈な問いかけともなっている。少年コミックの典型で物語は、若い世代の成長譚の枠組みを取るが、このスーパー歌舞伎を通して、出演の役者たちがより自由で生き生きとした役作りの愉しさを身にまとうのではないか。そんな期待をこめて『ワンピース』を観た。十一月二十五日まで。
2015年10月3日土曜日
【劇評28】二世松緑追善の大舞台
歌舞伎劇評 平成二十七年十月 歌舞伎座。
二世松緑の二十七回忌追善。以前にもどこかに書いたことがあるかもしれないが、十五年ほど前、『演劇界』の編集者に突然「今まで見た中でもっともすぐれた役者はだれですか」と問われ、言下に「松緑」と応えた。時間の余裕があれば、他の答えもあったろうと思うが、とっさの場合はときに真実を指し示す。そんなことを思いながら、ゆかりの演目を観た。
昼の部は『音羽嶽だんまり』の一幕。権十郎を上置きに、松也、萬太郎、児太郎、右近、梅枝らが出演。若手花形の個性を観る楽しみがある。第二場の「だんまり」は、歌舞伎役者としての身体の味が問われる。シンプルな所作が、もっともむずかしい一例だ。全体を通していうと、梅枝がこの世代では頭ひとつ抜けている。けれど、幕切れの引っ込みで、松也の夜叉五郎が花道の七三に立ったときの大きさには驚いた。技術うんぬんよりも
、役者っぷりがよくなったのだろう。自信はなにより役者を成長させる。
松緑の五郎時致による『矢の根』。稚気と勇壮さのバランスがよく、祝祭劇の本質に迫ろうとしている。十郎は藤十郞。短い登場だが、追善に花を添えた。
東京でははじめて観る仁左衛門の『一條大蔵譚』。松島屋のやり方というよりも、仁左衛門の好みで創り上げた舞台だが、何度も手がけているだけに、お京の孝太郎とともに安定感がある。時蔵の常盤御前の哀しみ、家橘の鳴瀬の懸命、いずれも胸を打つ。鬼次郎の菊之助は、おおよそこの人の仁にない役だが、意外に健闘。男臭い武芸者ではなく、妻の心情もおもんばかる二枚目として造形しなおした。その是非はあると思うが、ときには役を引き付けるやり方もあってよい。
菊五郎の極め付け長兵衛が楽しめる『人情噺文七元結』。もはや東京では風前の灯となった江戸弁が、菊五郎に息づいている。時蔵のお兼もすでに定評があるところだが、役を作っていく作為が消えて、長屋のおかみさんの苛立ちと裏のなさがよく出ている。出色なのは、梅枝。お店のお金五十両を無くしてしまった大川端で身を投げようとしている文七の必死な思い。リアリズムに過ぎるというのは、性格ではない。役の心情を掘り下げた末に出てきた激情なので説得力がある。おひさの右近もずいぶん成長した。子供の哀れさではなく、少女の健気さが出るようになり、役が大きくなった。篤実な左團次の清兵衛。ざっけない玉三郎のお駒。
夜の部は『壇浦兜軍記』。俗に言う阿古屋の琴責めで、琴、三味線、胡弓の三曲で、心の内を表現する難役である。歌右衛門以降、この役を引き継いできた玉三郎が藝の頂点を示す舞台。出から遊君のあでやかさ、美しさ、その底流にある哀しさが劇場いっぱいにしみわたる。乱れなく三曲を弾き終えるのは至難の業だが、もはや玉三郎に乱れなどあるわけもなく、ただ遠い日々の記憶と未来への予感が感じ取れる。敵役の岩永を亀三郎が滑稽に演じる。近年の充実振りは目を見張るばかりで、舞台を楽しんでいる。白塗りの捌き役重忠は菊之助。身体的に動けずしんどい役だが、微動だにせず、芝居のたしなみのよさが伝わってきた。
夜の部の切りは、今月の眼目となる『髪結新三』。松緑初役だが、上総無宿の入れ墨者、悪党の性格が強く出た。十七代目勘三郎のやり方を感じたのは、柄や仁の問題だろうか。家主の左團次は手慣れたもの。團蔵の弥太五郎源七は、『文七元結』の角海老手代喜助とともに、ていねいな芝居で盛り上げる。下手な器用さよりも、誠実な芝居の組み立てがいい。秀調の車力善八は、もはやこの人のもの。菊五郎劇団のベテラン達に支えられ、松緑は恵まれている。亀寿の下剃勝奴にしたたかさ。梅枝のお熊は序幕の見世先で本物の煩悶を見せて役を大きくした。いささか貫禄がありすぎるが肴売り新吉を菊五郎が勤める。これぞ「ごちそう」で、急に初鰹がうまそうに思えてきた。二十五日まで。