歌舞伎劇評 平成二十五年八月 歌舞伎座
今年も納涼歌舞伎の八月がやってきた。勘三郎ばかりではなく、三津五郎もいない。その哀しさ、淋しさを振り払うように、若い世代が力いっぱい舞台を勤めている。
第一部は、七之助のおちくぼの君、隼人の左近少将、巳之助の帯刀、新悟の阿漕が清新な芝居を見せる。中世の落窪物語が原作だが、実質は平安時代の衣装をつけた現代劇。継子イジメにあうおちくぼの君が晴れて左近の少将に迎えられるシンデレラ物語だ。
七之助は絶望的な状況でも健気に生きる少女を活写する。隼人は爽やかな公達ぶりだが、いかんせん上背があり、衣装の着付に難がある。純古典の演目ではないだけに、色柄に独自の選択があってもよいのではないか。巳之助と新悟は、ときに剽軽なやりとりを難なくこなす。芝居心があるからだろう。亀蔵、高麗蔵、彌十郎のベテランが劇を底支えした。
勘九郎の次郎冠者、巳之助の太郎冠者、彌十郎の曽根松兵衛。勘三郎と三津五郎の当り狂言を継承したかたちだが、冒頭の十五分がむずかしい。春風駘蕩たる空気を醸成するのはなまなかなことではない。酔い始めてからも、勘九郎、巳之助ともに「演技としての酔い」が立ってしまっている。このコンビで長く踊り続けることによって、次第に成熟していくのだろう。
第二部は橋之助の『逆櫓』。松右衛門実は樋口次郎兼光だが、大きさはあるが貫目が足りない。義太夫の詞章をよく踏まえた舞台でありたい。時代物の次を担っていく橋之助だけに、遙かな高みを望みたい。女房のおよしはさすがに今の児太郎には荷が重すぎた。彌十郎の権四郎、扇雀のお筆。時代物には脇もまた年輪と経験が求められる。脇が揃ってこそ芯となる松右衛門の特に前半の芝居が生きてくる。
続く『京人形』は遊び心あふれるファンタジー。勘九郎の左甚五郎、新悟の女房おとく、七之助の京人形の精。柄にはまって、よくまとまっている。ただし、踊りとしての妙味に乏しく、後半、立廻りとなるまでが厳しい。洒落を愉しむ職人とその女房の粋を感じさせたい。
第三部は、『棒しばり』と同様、十世坂東三津五郎に捧ぐと副題のついた『芋掘長者』。治六郎を勤めてきた橋之助が藤五郎に回り、巳之助が治六郎に。藤五郎、治六郎がお互いを思いやる気持ちが伝わってくる舞台となった。いずれ巳之助が藤五郎に回り、あえてへたくそに見える踊りを踊る日がくるのだろう。愉しみになってきた。秀調の後室にさすがの安定感。七之助の緑御前は息をのむほどの美しさ。
切りは『祗園恋づくし』。さすがに小幡欣治の作だけあって、人物配置がうまく、戯曲の力で役者を生かす。扇雀の大津屋次郎八と女房おつぎの演じ分けがおもしろい。勘九郎が戯画化された江戸っ子留五郎を巧みに演じた。こうしたときに喜劇センスのあるなしがよくわかるが、七之助のあっけらかんとした当世風の芸者染香。巳之助の手代文吉は、台詞だけではなく、身体の表情がおもしろい。代役の鶴松のおそのもお嬢様らしいおっとりとした様子を見せる。歌女之丞、高麗蔵、彌十郎のいぶし銀のような芝居があってこその新作だ。