2015年7月12日日曜日

【劇評23】時代物の立役として 菊之助の進境

 【歌舞伎劇評】平成二十七年七月 国立劇場
「柄があっている」とか「仁にない」といいならわす。柄は身体的な条件だろうし、仁は本質的な性向を指している。菊之助は、これまで女形と二枚目を中心に役を勤めてきたこともあって、『義経千本桜』「渡海屋・大物浦」の渡海屋銀平実は平知盛は、柄にも仁にもあっていないとだれもが思っていた。
ところが、七月の国立劇場の舞台を観ると、柄にあっており、仁もなかなかに思えたから不思議である。舞台成果をあげるごとに、役者の柄や仁も次第に変わっていく。そのよい例をみたように思った。
まずは「渡海屋」から。菊之助の銀平はまず「出」がよい。厚司を羽織った姿がすがすがしい。七三でふっと止まって家内の様子を察する。亀三郎の相模五郎、(尾上)右近の入江丹蔵の無理難題に困惑する梅枝の銀平女房お柳。この無体を菊之助の銀平は、単純な暴力ではなく、人間の厚みで押し返しているところがいい。亀三郎もチャリをよくこなすばかりではなく、身体に強さがある。右近は踊りで鍛えているためか安定感がある。
梅枝は町家の女房でありながら、芯に位の高さが漂い出色の出来。亭主自慢の件りも夢中になっていく様子がよく、近い将来、『吃又』のお徳が観たくなった。
上手屋体では全身白の狩衣となって、彫像のように現れるときの静謐さ。ただし、眉を強く引きすぎてはいないか。萬太郎の義経が出てからは、銀平が海へ、そして戦へと向かう気持ちが高まっていく様子がよく伝わってくる。出立の前の謡いも焦らず荘重に舞って大きさが出た。大きさとはすなわち強さではない。余裕を持って事にあたり、感情の振幅があれば、大きさが出る。
さて「大物浦」子役の安徳天皇を奉じた典侍の局(梅枝)が、知盛の敗北を知って入水を心に決めていく。このむずかしい件りも梅枝が丁寧に勤めている。深手を負った知盛が順を追って心境を変化させていく。まずは義経への恨み、そして局が自害してからの絶望、そして平家の専横を振り返る嘆き、ついには父清盛を例に取り、人間が陥る「三悪道」と向かい合うことになる。こうした段階を持ち前の美声を響かせることをあえて封じ、黙阿弥調で台詞を歌うことに慎重になって演じたために、碇を持って死へと向かう件りが説得力を持った。
時代物の立役の芯を取る役者として菊之助が一段上へいったことがよくわかる。次は『逆櫓』の樋口か。亀三郎、右近、梅枝、萬太郎がそれぞれ全力で役を勤め、舞台水準は鑑賞教室と思えぬほど高い。弁慶は怪我で休演した團蔵に替わって菊市郎。「歌舞伎のみかた」の解説は萬太郎。客に媚びずにきびきびと語り清々しい。二十四日まで。