2015年5月9日土曜日

【劇評18】小品ながら芝居の喜びにあふれる『あんまと泥棒』

歌舞伎劇評 平成二十七年五月明治座 昼の部夜の部

平成二十三年から明治座が歌舞伎公演を再開してからもう七回目となった。「五月花形歌舞伎」は、どんな観客でも手を叩き、共感し、一日の楽しみを得るための狂言立てを一貫して貫いている。この明解な姿勢は評価されていいだろうと思う。
昼の部は歌舞伎十八番の内『矢の根』から。まだだれも踏んでいない清浄な舞台に、稚気溢れる曽我の五郎が祭祀劇を演じる。市川右近は心理的な解釈を差し挟まずに、原石のように舞台にいて輝かしい。十郎の笑也も巧まずして柔らか。
石川耕士補綴・演出の『男の花道』は、長谷川一夫による上演を強く意識した舞台。第一幕第一場に大坂道頓堀の芝居前の情景を加えて、加賀屋歌右衛門(猿之助)の舞台を観て、盲目であると見破った蘭方医土生玄碩(中車)の出会いを描く。第二幕第三場は、江戸中村座の舞台で歌右衛門が観客に、玄碩の急を救いに芝居を中断したいと願う場。大坂から江戸へ。文化年間の歌舞伎風俗をたどる趣向だ。「たっぷり」と声をかけたくなるような執拗にだめを押し続ける演技だが、猿之助も中車もそして敵役の田辺を演じる愛之助もこのあたりのさじ加減は、よくわかってのことだろう。観客を泣かせ、同調させることを明白に意識している。ただし、幕切れに使う洋楽はいかがなものか。長谷川の舞台を意識してのことだろうが、緞帳が落ちるときにセンチメンタルな音楽がかぶさると、安い時代劇を観ているような気分に陥る。
加賀屋東蔵に竹三郎。女将お時に秀太郎。
今月の見物は、小品ながら夜の部の『あんまと泥棒』(村上元三作・演出 石川耕士演出)。まず、冒頭の中車によるあんま秀の市のひとり芝居がすぐれている。リアリズムを基礎としつ、様式性を獲得しているのは、この役者の成長を示すものだ。犬に吠えかけられたり、どぶにはまったり。さんざんな夜を活写している。猿之助の泥棒権太郎も実の達者で、中車の攻めの芝居をすべて受けきってニュアンスに富む。朝なりとうとう隠し金は見つからない。それどころか、市のみじめな様子に同情し、なけなしの金をめぐんでやるべきか、行きつ戻りつつある猿之助の身体のこなしがすぐれている。ためこんだ金をめぐる攻防に勝ちぬいた秀の市の高笑いが、朝の長屋に響き渡って爽快だった。
さらに愛之助による『鯉つかみ』(片岡我當監修 水口一夫脚色・演出)。序幕なぜ鯉が釣家に恨みをもっているのか筋を通した部分が、スペクタクルとしてもすぐれて、通し狂言とした利点があった。花見の場、壱太郎の小桜姫がいい。時分の花が咲き誇り、可憐な赤姫をよく演じている。愛之助の四役は、早替りのおもしろさに終わらず、いずれも役の本質をつかんで無理がない。この役者の守備範囲をよく理解した台本と演出が生きる。欲をいえば釣家下館の場、志賀之助と小桜姫の劇中の所作事により幻想性がそなわるとよかった。振付の問題よりは、照明により工夫があってよい。大詰の本水による立廻りは愛之助大車輪。観客をよく巻き込んで楽しく打ち出した。二十六日まで。