2015年5月23日土曜日

【劇評19】人間存在への希望を語る『海の夫人』

 【現代演劇劇評】二〇一五年五月 新国立劇場小劇場

イプセンの『海の夫人』は、私にとって思い出深い戯曲である。T.P.T(シアター・プロジェクト東京)は、一九九四年五月『ヘッダ・ガブラー』で高い窓から流れ込む風の気配を感じ、七月の『エリーダ〜海の夫人』では、海の暴力的な叫び声を聞いた。十月には同一の装置で『ヘッダ』と『エリーダ』を交互上演するイプセン・プロジェクトが、今はもうないベニサン・ピットで上演された。いずれもデヴィッド・ルヴォー演出の舞台である。これまで新劇のレパートリーとしてさしたる関心を持たなかったイプセンを、私は衝撃として受け止めた。
今回、新国立劇場が上演した『海の夫人』(アンネ・ランデ・ペータース、長島確翻訳、宮田慶子演出)を観て、このときに衝撃が甦った。一九九四年の八月にT.P.Tは麻実れい主演で『双頭の鷲』を上演しているから、当時の状況からして麻実がこの上演を観ていることはまず、間違いないだろう。なぜ、こんな話を始めたかというと、今回の宮田演出は、ルヴォー演出に対しての尊敬に充ち満ちているように思える。エリーダ(麻実)とヴァンゲル(村田雄浩)の関係性、またボレッテ(太田緑ロランス)とヒルデ(山崎薫)の亡き母への思い。彫刻家志望のリングストトラン(橋本淳)の浮遊感、アーンホルム(大石継太)の実直、バレステッド(横堀悦夫)の飄逸、見知らぬ男(眞島秀和)の脅威。いずれも、かつての舞台をまざまざと思い出させた。非難しているのではない。こうしたリスペクトに基づいて、丁寧に再度、テキストを読み込み舞台に立体化する作業は、なにより貴重である。日本の演劇界にとって大きな転機となった舞台と演出の方向性が、今もまだ通用することを示して見せた。
ここにあるのは、単純な夫婦関係の修復の物語でもなければ、家族の再編成の美談でもない。人間の身体になかに埋めこまれている自由への憧れ。そして海という自然がいかに美しく、そして恐怖に満ちているかが読み取れる。この絶望的な時代に、人間存在への希望が語られている。着実でしかも誠実な仕事となった。31日まで。http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/150501_003733.html