2015年3月8日日曜日

【劇評11】『菅原伝授手習鑑』通し。『車引』の霊、 『賀の祝』の美と哀切

 【歌舞伎劇評】平成二十七年三月 歌舞伎座夜の部 美と哀切

三月歌舞伎座夜の部は、『菅原伝授手習鑑』の『車引』から。愛之助の梅王丸、染五郎の松王丸、菊之助の桜丸、彌十郎の時平公と、これまで意外に顔合わせが少ない四人が揃って格別な舞台となった。
まず、深編笠をかぶっての梅王丸と桜丸のやりとり、身体のこなしがよく、言葉ばかりではなく物語る力がある。合理性はここでは重く見られない。言葉のみならず身体が語る物語は、霊的な存在を呼びさます。この『車引』は、人間たちの葛藤を描いているのではない。日常生活から離れて、ひとの無意識がうごめきだす時間を扱っているとわかる。
深編笠を取ると、剛と柔、ふたりの存在が顕現する。愛之助は折り目正しく荒事の梅王丸であろうとし、菊之助はなんとも柔らかで和事を踏まえた桜丸であろうとする。愛之助の飛び六方も力感があふれ無理がない。
牛車には、菅丞相を流罪に陥れた時平公が乗っているという。黒牛によってひかれ、黒に塗られた牛車はただそこにあるだけで古怪な雰囲気を醸し出す。「加茂堤」の牛車と対になっている。
染五郎の松王丸がまたいい。座頭の風格さえ感じるようになったのは、最近のことだ。力みが取れて、荒事では心理主義的な演技を周到に回避している。三人の見得もそれぞれいいが、菊之助の形のよさは、舞踊で鍛えた身体があってのことだろう。
彌十郎の時平公、本来の仁からは遠い役だが、牛車からの出から、硬質でしかも人間とはほど遠い超自然的な存在になりおおせている。なにより四者が絵面に決まっての幕切れが、歌舞伎の美を堪能させてくれる。
続いて五幕目は『賀の祝』である。
松王丸女房の千代(孝太郎)と梅王丸女房の春(新悟)のやりとりから始まるが、底を割らずに白太夫(左團次)の古希の祝いの気分がある。染五郎の松王丸と愛之助の梅王丸の米俵を使っての喧嘩「俵立て」も動きがよく、この世代の役者の充実を見る。
『賀の祝』は、三つ子を相手に複雑な心の内をみせる白太夫の芝居といってもいい。左團次は、主君菅丞相への忠義に貫かれており、また三つ子へ情もあわせもっている。ただし情を垂れ流しにはせず、あくまで強面である。菊之助の桜丸が暖簾を割って登場してからは、父親としての嘆きに終始するが、泪に溺れない。
菊之助の桜丸は、平成中村座に続いて二度目だが、格段の進境を見せる。出の「女房ども、さぞ待つらん」では「さぞ」を抜いて、文楽の本行を真似る。また、息継ぎで楽をせずに、竹本とまっこうから渡り合う気迫に充ち満ちている。
自らの失態によって、主君の流罪へと至った。その後悔と絶望が、父により九寸五分が与えられるうちに澄み渡った心境となる。ここでは祖父梅幸にならって、島台に乗るのは、腹切り刀ではなく、鞘のある刀である
「これまで馴染む夫婦の仲」では、梅枝の女房八重と目を見交わし情をみせる。
また、白太夫へ「親人、はばかりながら御介錯」からは、腹を切った痛みの向こうに、死へと向かう人間の法悦さえも漂う。
『仮名手本忠臣蔵』の判官、『摂州合邦辻』の玉手御前と切腹の幕切れを数多く演じてきた経験が生きている。まことに美しく哀れな桜丸であった。梅枝が行儀良く八重を勤めている。
幕切れは『寺子屋』。染五郎の松王丸、孝太郎の千代、松緑の源蔵、壱太郎の戸浪、高麗蔵の園生の前、廣太郎の涎くり。錦吾の下男三助、亀鶴の玄蕃。今回は丁寧に寺入りから出たので、源蔵の出が唐突にならない。また、昼の部から見ている観客には、『筆法伝授』でいかに、源蔵と戸浪が苦境にあったかとつながり、この幕におかれたふたりの心情がわかる。
ただし、理が通ったからといって舞台成果が保証されるわけではない。源蔵と戸浪の間に気持ちの通い合いが薄く、また松王丸に大きさはあるが、嘆きがしみ通らない。千代も子を犠牲にする親の強い覚悟が感じられない。全体に肚が薄いので、『寺子屋』が持つ不条理ばかりが立って、観客の共感を巻き込むには至らなかった。二十七日まで。