2015年3月2日月曜日

【閑話休題2】新聞書評を読んで。誤解。

三月一日付の東京新聞読書面に、『菊之助の礼儀』書評が出た。
「新刊」のコーナーで十四行の評である。
新聞評が出るのはありがたいけれど、内容が誤解をまねくような表現ばかりで困ってしまった。

「一九九九年以来、菊之助に伴走しながら取材した演劇評論家のインタビュー集」
とあるが、本書のほとんどが地の文であり、「インタビュー集」というのは、あまりに内容とかけ離れているのではないか。
確かに、菊之助の発言は使っているが、本書は一問一答や大部分を括弧付きの発言で占められているような「インタビュー集」ではない。
「野田秀樹や蜷川幸雄など現代演劇劇作家による舞台にここ数年取り組んでいる」とある。野田秀樹が執筆予定だった『曾根崎心中』の企画は、平成二十六年に予定されていたが、勘三郎の急逝によって実現不可能になった。
また、蜷川との『NINAGAWA 十二夜』は、平成一七年に初演されている。
三演のロンドン公演は、平成二十一年に実現している。
この数年はまったく動きはない。
いずれも、「この数年取り組んでいる」と評するにはあたらないのではないか。
また、残念ながら、この数年蜷川らとの企画が、歌舞伎の舞台に乗っている例はないのにもかかわらず、
「取り組んでいる」とはどんな意味かわからない。

「芸に対する透徹した意思と創意を『曾根崎心中』や『勧進帳』などの作品に探り、その姿勢にエールを送る」とある。
『曾根崎心中』は先に述べたように実現しなかった企画である。
また、『勧進帳』は、菊之助は富樫、義経はすでに勤めている。
この本の末尾の趣旨としては、音羽屋菊五郎家の家の芸ではないにもかかわらず、
「弁慶を四〇過ぎやれたらいいなと思っています」
と語り、菊之助がいつか弁慶を勤めたいと思ってると結んでいる。
なぜ、本書で取り上げた多くの演目から、実現できなかった『曾根崎心中』や
これから弁慶を初役として取り組みたいとする『勧進帳』を、取り上げるのか理解しがたい。

いずれにしろ書評を書いた人物は、『菊之助の礼儀』をまともに読んではいないように思える。

ありがた迷惑である。

読者を混乱させなければいいと思っている。