2015年2月22日日曜日

【劇評9】哀切きわまりない「陣門・組打」再見

 【歌舞伎劇評】平成二十七年二月 歌舞伎座夜の部 「陣門・組打」再見

昨日、二十二日に「陣門・組打」が急に観たくなって歌舞伎座へ行った。
気まぐれなようだが、今月の夜の部ではやはりこの『一谷嫩軍記』がとりわけすぐれている。吉右衛門、芝雀、菊之助の顔合わせも早々あるわけでないだろうから、脳裏に刻みつけておきたかったのである。
結論からいえば、招待日の四日に観たときよりも格段に緻密に組み上がっていた。特に菊之助の敦盛実は小次郎が、両の手を合わせて合掌するとき死を覚悟した敦盛の澄み渡った心境が劇場にしみわたってくるのがわかる。
平山が出て事態はさらに悪化する。
敦盛実は小次郎が「おろかや直実、悪人の友を捨て、善人の敵を招けとはこの事。はや首討って、亡き後の回向を頼む、さもなくば、生害しょうか」と吉右衛門の熊谷に迫るときの緊迫感は、またとない。。二十五日間繰り返す歌舞伎興行でありながら、一期一会、孤独な魂がふるえるようだった。
芝雀の玉織姫が敦盛の首がみたいと願い、すでに目が見えないとわかってから熊谷は首を渡す。身代わりと知れてはいけないという肚だが、ここでも過剰な思い入れを避けている。内心の葛藤をみせるばかりではなく、恋人をなくした姫への思いが立っている。
「どちらを見ても蕾の花、都の春より知らぬ身の」
敦盛実は小次郎と玉織姫の非業の最期を嘆く熊谷の絶唱が生きている。
そのため、母衣を使って、敦盛と玉織姫の遺体を海に流す件り、あ愛馬に敦盛の形見の鎧、兜、大小を背負わせる芝居も、段取りに終わらない。熊谷の重い心の内を写して、ゆったりと芝居を運び、哀切きわまりない。
〽右に轡の哀れげに、壇特山の憂き別れ」
葵太夫の竹本も、吉右衛門の芝居に寄り添うように、言葉を踏みしめるように語る。
右に敦盛の首を抱え、左に愛馬の轡を握って決まる幕切れの大きさは無類であった。
子役を使っての遠見の演出も生きる。
それにしても、海の青さと白波のなんとあざやかなことか。
網膜に焼き付いて離れない。